【特別企画】
シャープ、「誠意と創意」の歴史を辿る 最終回
シャープの歴史について全6回で掲載しております。(編集部)
■経営環境の悪化に「最後の覚悟を固めた」
2012年に創業100周年を迎えるシャープは、これまでに何度となく訪れた経済環境の悪化のなかで、舵取りを余儀なくされている。そのなかで、シャープはどうやって苦境を乗り切ってきたのだろうか。
創業者である早川徳次氏が、「生涯最大の危機」と表現したのが、戦後復興期に、占領軍が食料や物資不足によるインフレ抑制のために打ち出した「ドッジライン(緊縮財政措置)」を発端とした大不況であった。
このドッジラインの影響で、デフレの気配が強まるなか、個人消費は低迷。さらに、80社のラジオメーカーが林立するなか、売上回復、在庫処分を目論む各社が乱売を開始。加えて、旧モデルでは、放送開始が予定されている民間ラジオ放送局の放送が聞けないという情報が流れ、大量の売れ残りや返品が発生。これもラジオメーカーの経営環境を悪化させた。
1949年には月産80,700台だった業界全体のラジオ生産量は、1950年には月産18,000台にまで落ち込んだ。
市場では、脱税品の投げ売り、不渡り手形の乱発という状況も起こり、翌年には、ラジオメーカーは十数社にまで減少することになってしまったのだ。
シャープの業績も芳しくない。いや企業存続の瀬戸際にあったともいえる。
1949年度上期には712万円の純利益を確保していたものが、1949年度下期には一転して465万円の赤字に転落。銀行からの借入金は1950年7月には1億3,200万円にまで膨れ上がり、1950年度上期にはなんと2914万円の赤字を計上したのだ。1949年の株式市場再開とともについた42円の株価も、その後、14円まで落ち込んだ。
原料、材料の支払いにも苦慮し、それまでにはなかった従業員への賃金支払い遅延まで生じた。
遊休施設を売却し、手持ち資材も売り尽くした。早川氏が個人所有する土地も安く手放した。それでも状況はいっこうに回復しなかった。
他方、置かれた状況は当時のパナソニックも一緒だった。
「首吊りでもせにゃらんかと思ったよ」後日、パナソニックの創業者である松下幸之助氏は、当時の様子を早川氏にこう語ったという。それに対して、早川氏は自らの経験に照らし合わせて、相づちを打つ。実際、早川氏は、自らの手記のなかで「私は密かに、最後の覚悟も固めていた」と当時を振り返り「家内が不吉な予感を覚えたのか、それとなく身辺を警戒しはじめて、会社の誰彼となく、夜は私のところに寝泊まりにくる始末であった」としている。
■二度と人員整理はしない
そうしたなか、金融機関との最後の折衝において、現実に即応した経営の合理化を前提に、資金融資の提案があった。そのためにはまず過剰人員の削減を実施しなくてはならなかった。すでに社員数は588人と縮小していたが、銀行側はさらに削減を求めた。
だが、早川氏はまだ迷っていた。人員を整理するぐらいならば会社を閉める方を選ぶと考えていたからだ。
この気持ちが、まず部課長クラスに届いた。「このまま会社を潰してもいいのか。会社が立ち直る方法を従業員も考えよう」との呼びかけが社員に広がった。その活動は、労働組合側が自主的に希望退職者を募って、人員削減に持っていくという異例の動きにつながっていった。
組合の代表から正式な申し入れののち、部課長や取締役から早川氏に提案されたのは210人の過剰人員の削減。そして、1カ月の売上回収目標を1,853万円とすることなど。そして、取締役からは総意として、銀行融資への個人保証に加え、すべての持ち株を銀行担保とし、再建に伴う組織編成の取り組みについても、白紙の委任状を早川氏に提出したという。退職する社員に対しては、退職金のほかに上乗せ金、そして、再雇用の際には優先的に採用すること、ラジオ1,000台を支給することなどが盛り込まれた。
シャープにとって最初で最後の人員整理が、この時実行に移された。
その結果、富士銀行を筆頭とする協調融資によって金融支援が開始され、シャープは奇跡的に倒産を回避することができた。
「シャープの再発展は、このときの社員の捨身の行にあったといえる。そして、この時、惜しい人たちを多く失っている。生涯、肝に銘じたい」
その後、シャープには「二度と人員整理をしない」という不文律が生まれ、同時に緊縮経営と厳格な原価計算、品質管理といった経営手法をより強化していった。
「釘一本、ネジ一個の支出を、正確に迅速に管理し、不況は明日くる、という心構えをもって、健全経営に当たることにした」と早川氏は、経営再建後の経営体質の変化を示す。
世の中では、1950年の大不況の一方で、朝鮮動乱によって、国内産業が回復の兆しを見せ始めようとしていた。
ここで早川氏は、苦しい経験によって得た教訓を生かしている。
この回復を一時的な回復と見ていた早川氏は、競合他社が設備の拡張などを図るなかでも緊縮経営体制を維持。1951年の動乱終結後の経済界の混乱のなかでも、打撃を受けることなく経営することができたのだ。
振り返れば、早川氏が狙っていたのは、民間ラジオ放送の開始だった。一時的な景気回復にとらわれるのではなく、民間ラジオ放送の開始という大きな波に向けた準備を周到に行なっていたのだ。大きなジャンプをする前には一度かがまなくてはならない。経営再建のなかで、早川氏はそれを実行していったといえる。
1965年に訪れた東京オリンピック後の大不況、1973年の第1次オイルショックの際にも、シャープは、一時帰休や希望退職制度は一切行なわなかった。ここにも、1950年の教訓が生かされている。
1965年には、田辺工場を埋め尽くした在庫の山を「社員全員が売ればいい」という発想の転換につなげ、生産現場を中心に47人の技術者などが参加した営業部隊を結成。これを「市場攻撃隊」と訳すことができる「ATOM(アトム=アタック・チーム・オブ・マーケット)隊」と命名し、販売店と一緒になって顧客のもとを訪問し、ニーズを聞きながら製品を販売。
さらに各種イベントを展開するといった手法に打って出た。これはその後の新製品開発に、ニーズを反映させるという点でも効果を発揮。ATOM隊は現在でも存続し、販売店を支援する機動型営業部門として活躍している。
また、1973年のオイルショックの際には、経済性を追求した新製品開発に向けた投資を行ない、Energy(エネルギー)、Labor(手間)、Material(資源)の頭文字をとった「ELM(エルム)」製品を開発。省資源、省エネを実現した電卓や冷蔵庫、カラーテレビなどを投入。さらに、この活動は、1976年からスタートした新たな製品開発コンセプトである「ニューライフ商品戦略」にもつながった。
ニューライフ製品につけられたマーク | ニューライフ商品戦略では、New Life Peopleのロゴも作られた |
ニューライフ商品戦略では、団塊世代をターゲットにした、新たなライフスタイルに対応した製品を開発するもので、「サラダをおいしく食べたい人のための冷蔵庫」、「2台目のテレビもある程度の大きさが必要で、しかも省スペースを実現したテレビ」などを開発し、新たな需要の創出を実現した。14型の筐体に16型のブラウン管を埋め込んだ「ちびでか」が誕生し、さらに、耳元にスピーカーを置くことで自分専用となるピロースピーカー機能や音声多重機能など、個性の強い団塊世代に向けて、個性的な小型テレビをラインアップしたのもこの時だ。
1976年に発売した「ちびでか」。14型の筐体に16型のブラウン管を埋め込んだ | サラダをおいしく食べたい人のための冷蔵庫として開発された「アラスカ」。1976年に発売 |
なお、この時に使われたエルムという名称は、シャープ東京市ヶ谷ビル8階の多目的ホールである「エルムホーム」として、いまでもその名称が使われている。
エルム製品として開発された電卓の「EL-8000R」 | EL-8108 | 冷蔵庫でもエルム製品が投入された。写真はSJー206 |
シャープが目指すのは、「他社に真似される商品をつくる」ということである。この考え方は、「オンリーワン商品を創出する」という言葉に置き換わり、現在につながっている。
そして、「オンリーワン商品創出の源泉」と、現・町田勝彦会長が位置づけるのが、1977年からスタートした緊急プロジェクトチームの存在だ。社内では「緊プロ」と呼ばれ、緊プロに携わる社員には、役員と同じ金色の社員証が付与され、出退勤も自由となり、物事はすべてに優先されて決定された。研究開発費も事業部負担から、全社予算のなかで推進されるようになる。人材は、各事業本部や研究所から最適な人材が優先的に召集され、社長直轄の社内横断型プロジェクトとして、最終決裁も社長が行なうことになる。そして、緊プロから生まれる商品は、「独自の技術に基づく非価格競争商品」、「経営の根幹となる商品、設備の開発」が条件とされた。
緊プロの前身は、1973年に発売された世界初の液晶電卓「エルシーメイト EL-805」の開発体制にあった。
このとき、各事業部から技術者が集められて結成した特命プロジェクトを参考にしたもので、それ以来、緊プロとして、これまでに300を超えるプロジェクトチームが結成されたという。現在でも、約10個の緊プロが社内で動いているという。
緊プロ第1号となったのは、ビデオレコーダーだった。
録画再生の主要機能を担当するのは映像技術の管轄。駆動モーターなどはメカの範囲になる。とくにメカの役割は、この製品では重要だった。というのも、シャープでは、ビデオテープを前から出し入れできるフロントローディング方式を採用することを、このビデオレコーダーの開発コンセプトとしており、そこのメカづくりが重要な役割を担うことになっていたからだ。
これを実現するために、白物家電の部門から機械技術の担当者が召集されたものの、開発には困難を極めた。構造が簡単なポップアップ式に比べると、構造が複雑で、予定通りに開発が進まなかったからだ。プロジェクトの会議では、担当者同士の熱い議論が繰り返され、その声は隣の会議室にまで届くほどだったという。
世界初となるフロントローディング方式のビデオカセットレコーダー「マイビデオV1」。緊プロから生まれた第1号製品だ |
激しい議論や試行錯誤の末、解決の糸口を見いだしたプロジェクトチームは、2年を経過した1979年に、ようやくフロントローディング方式のビデオレコーダー「マイビデオ V1」を完成させた。
この製品の誕生が、その後、「ビデオレコーダーは、テレビの下に置く」という世界的な常識を定着させることになる。
町田会長は、「当初は、社長命令とはいえ、多忙な事業部門からは優秀な人材は出せないという問題も発生するなど、困難を極めた。第1号となった1977年の緊プロが、もし成功していなかったら、この制度は存続できずに、シャープはどんな企業になっていたかわからない」と自らの著書のなかで述懐している。そして「緊プロがなければ、オンリーワンの製品が生まれる確率はかなり低かっただろう」とも語る。
ここで大切なのは、緊プロの実行には多くの困難が伴い、それを乗り越える風土の醸成が必要であるということだ。同じ社内とはいえ、顔を突き合わせたことがない社員が一緒に仕事をする困難、全く異なる技術を融合させる困難、主力の技術者を各部門から召集する困難、そして、挑戦的な新たな商品を開発する困難など、数え上げればきりがない。多くの会社が「シャープの真似をしてみたがうまくいかなかった」というのも当然だ。
だが、シャープには、すでに30年を経過した緊プロの実績があり、これを推進する企業風土が醸成されている。経営層や事業部長クラスにも緊プロの経験者が数多く存在し、緊プロの重要性を身に染みて実感している上司が増えている。つまり、オンリーワンの商品を開発するには、この制度しかないという強い信念と、なにがなんでもやり遂げるという覚悟が社内に浸透している。それが、緊プロの成功につながっている。もはや「文化」といっていい領域なのかもしれない。
町田氏が社長に就任した1998年。町田氏は「シャープは顔が見えない会社である」という言葉に強いショックを受けたという。
当時のブランド力は業界で7位。そしてシャープのイメージは、「低価格の製品を提供する会社」であり、オンリーワンの商品を提供する会社のイメージからは大きくかけ離れていた。
海外事業本部長時代に、海外における圧倒的なソニーブランドの強さを知り、それが経営的にも大きな差となっていることを実感していた町田氏は、すぐに、シャープブランドの確立に乗り出した。
1998年の記者懇親会の席上、社内発表よりも早く、記者に対して「2005年までに国内で販売するテレビのすべてを液晶テレビに置き換える」と宣言。同時に「液晶応用商品以外は宣伝しない」という方針も打ち出した。
この宣言は社内に驚きをもって伝えられるとともに、液晶関連部門以外の現場からは強い反発が起こった。
「苦労して作った商品を、なぜ会社は宣伝してくれないのか」
だが、町田氏の決意は不退転のものだった。
「選択と集中を図れば、どこかで血が流れることになる」
町田氏は選択することでのマイナス面を強く理解しながも、集中によるもたらされる新たなプラス要素に賭けた。
「ブランド力がないのは顔が見えないからであり、その顔になってくれるのが液晶である」
2000年1月1日からシャープは、4日間連続で30秒のテレビCMを大量に放映した。
「20世紀に、置いてゆくもの。21世紀に、持ってゆくもの。」
「20世紀に、置いてゆくもの。21世紀に、持ってゆくもの。」のキャッチコピーで吉永小百合さんを起用した広告は話題を呼んだ |
このテレビCMは、シャープが液晶テレビに本格的に取り組んでいくことを、世間に示すものとなった。そして「あこがれのテレビ」を表現するために、液晶テレビの主要需要層になると思われる年代にとって「あこがれの女優」である吉永小百合さんを起用したことも大きなインパクトとなった。
さらに町田氏は、社内にブランドの重要性を徹底した。ブランドイメージについてピンとこない現場の技術者に対しても、機能性が優れていてもブランド力が低いために、トップブランドの製品に比べて10%も安く売られていること、これが経営に大きな影響を及ぼしていることも訴えた。
さらに、町田氏は異例ともいえる手法に打って出た。それは、日本国内の亀山工場で生産する「亀山ブランド」の訴求だ。量販店店頭では、今でも「これは亀山製なの?」という会話が頻繁に聞かれる。海外展開にシフトする競合他社を尻目に、国内生産にこだわったシャープのこの決断が、ブランドマーケティングにも大きな成果をもたらしたのだ。
液晶の技術力や亀山生産の信頼性を背景に、徹底した訴求活動によって、シャープがブランド力を高めてきたのは周知の通りだ。いまや「低価格の電機メーカー」という印象は払拭されている。
そして、このブランドイメージの向上は、しばらく宣伝をしなかった白物家電の販売増加にも直結するという結果にもつながった。
2007年のブランドイメージ調査で、シャープはついにトップブランドの領域に達した。
だが、町田氏はその手綱を緩めようとはしなかった。
「液晶の一転突破でブランドイメージを確立できたのは、7位のメーカーだったからこそ。トップとなったいまは、一本の柱ではそれを支えてはいけない」
シャープには、液晶テレビ「AQUOS」以外にも、いくつかのサブブランドが立ち上がっている。
ウォーターオーブン「ヘルシオ」、独自のイオン発生技術である「プラズマクラスターイオン」、パソコンの「メビウス」などだ。これに、今後の事業の柱とする太陽電池やLEDが加わることになる。
大ヒット商品となっている「ヘルシオ」。写真は第6世代となる「AX-X2」 | プラズマクラスターは今やシャープを代表するブランドの一つとなっている |
プラズマクラスター技術は空気清浄機だけでなく冷蔵庫などの白物家電にも続々と搭載されている。こちらはドラム式洗濯乾燥機の「プラズマクラスター洗濯機 ES-V510」 | サイクロン式掃除機の「プラズマクラスター掃除機 EC-VX210」 |
シャープが今後の柱とする太陽電池 | 2009年6月に発表したLED電球。これにより家庭用照明事業にも参入。写真はリモコンで調色・調光できる「DL-L60AV」 |
これからも強いブランドイメージを継続させることが、シャープの「誠意と創意」のDNAから生まれる製品を、より強いものへと進化させることになるだろう。
2010年1月19日 00:00