大河原克行の「白物家電 業界展望」

パナソニックはM&Aで成長した!? 「松下幸之助~M&Aと提携の歴史に学ぶ~」特別展示を誌上レポート

 パナソニックは、2016年12月5日~9日の5日間、東京・汐留のパナソニック東京汐留ビルにおいて、「松下幸之助 生成発展への道程~M&Aと提携の歴史に学ぶ~」を社員対象に開催している。

パナソニック東京汐留ビルで、社員を対象に開催中の「松下幸之助 生成発展への道程~M&Aと提携の歴史に学ぶ~」

 パナソニックでは、1989年に94歳の生涯を閉じたパナソニック創業者である松下幸之助氏を偲び、命日の4月27日を含む週の月曜日から5月5日までを「創業者メモリアルウィーク」に設定。大阪府門真市の、パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館では、それにあわせた特別展示を行なってきた経緯がある。

 今回の「松下幸之助 生成発展への道程~M&Aと提携の歴史に学ぶ~」は、2016年の創業者メモリアルウィークにあわせて、2016年4月20日~6月30日に、パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館で開催された同名の特別展示をもとに、パナソニックグループ社員などに限定して開催したもの。「時代を超えて、広く人々の参考になる松下幸之助の生き方、考え方について、歴史的なエピソードや写真、現物資料などで紹介した」という。

 展示内容は、「生成発展への道程」として、松下幸之助氏が戦後の苦難を脱して経営再建に着手し、新たな発展期を迎えた1951年の経営方針発表会において打ち出した「事業は生成発展する」との考え方に基づいた内容のほか、「創業者のM&Aと提携に学ぶ」として、創業以来のM&Aや提携の足跡について紹介。

 パナソニック初のM&Aとなる、1929年の合成樹脂メーカーである橋本電器の買収や、フィリップスとの提携、日本ビクターとの提携などの具体的な事例を通じて、松下幸之助氏のM&Aに対する基本的な姿勢を示していたのが興味深い。パナソニックが、M&Aによって事業を拡大してきた歴史的事実が示されてた展示内容だといえる。

特別展示の会場の様子。パネルや当時の製品、画像や音声で説明していた

 さらに、「経営理念の伝道師」ともいわれ、松下幸之助氏の片腕とした活躍した、高橋荒太郎元会長の功績に触れる展示も行なわれた。

 今回のレポートでは、松下幸之助氏が取り組んだM&Aにフォーカスを当てて、特別展示の内容を誌上レポートしよう。

津賀社長が語るM&Aの基本姿勢とは

 パナソニックは、創業100周年を迎える2018年度までに、1兆円のM&A投資を行なう考えを打ち出している。

 2016年3月31日の経営方針説明では、中期経営計画で打ち出していた売上高10兆円の旗は下ろしたものの、1兆円のM&A投資の計画は据え置き、M&Aを加速する姿勢をみせている。

 ここ数年で、配線器具のヴィコ、自動車機器のフィコサ、業務用冷蔵庫のハスマンなどの海外企業を買収。先頃、自動車用ライトのZKWグループを買収することが明らかになったところだ。

 さらに、野村証券やメリルリンチ日本証券で民生電機分野アナリストとして活躍した片山栄一氏を、事業開発担当役員として迎えるなど、M&Aを加速する体制も整えてきた。

2016年3月31日の経営方針説明会での津賀 一宏社長

 パナソニックの津賀一宏社長は、この特別展示向けに撮影した社内インタビューのなかで、「デジタル家電を担当していたときには、あまりM&Aを意識しなかった。それは多くのことがパナソニックの枠組みのなかで実現できたためである。だが、2008年にオートモーティブ社の社長になったときに、オートモーティブ産業のなかで、我々ができることだけをやっていると強く感じた。それではもったいない。パナソニックにはもっとできることがある。欠けているところをM&Aで補い、シナジーを作ることができれば、もっと大きなお役立ちができると考えた」とM&Aに対する考え方の変化を説明。

 「パナソニックは、長年、事業部制を敷いており、事業軸が強い会社である。また、金太郎飴とも言われることもある。だが、我々のお役立ちの対象が、日本からグローバル、家電からBtoBへと広がるなかで、多様な組織能力を持つ必要がある。そのベースは人である。海外でのM&Aを通じて、違う経験を持った多様な人たちに入ってもらうことで、入り交じり、学びあうことで成長ができる。会社を変えていくためには不可欠なものが、M&Aである」とした。

パナソニックのM&Aの歴史

 また、松下幸之助氏のM&A戦略についても言及。

 「会社には強みもあれば、弱みもある。創業者は、経営については自信があり、家電事業の販売についても自信があった。それに対して、弱みは何か、もっと伸ばすためにはどうするか、ということを考えた結果が、数々のM&Aであった。そのなかには、積極的にやったケースと、頼まれたケースとがあるが、どちらの場合にも経営には自信を持っていた。たとえば、電化時代が始まり、新たな商品が増え、応用商品が増えるなかで、その根っこの部分となるデバイスについて、フィリップスと提携ができたのは、経営に自信があったからだ」と発言。

 「パナソニックは、事業部ごとに向き合う顧客が違い、歴史が違う。そのなかで、経営理念や企業理念を共通化している。M&Aで入ってくる会社にとっても、経営理念や企業理念は共通化しなくてはならない。創業者は、『素直な心』や『衆知を集める経営』、『社会の公器』といったパナソニックの社員に刷り込まれている価値観を共有できる会社でなくては、M&Aは成功しない、あるいは成功しても意味がないと考えていたのではないか。それは私も同じである。いまの時代は、それを『A Better Life,A Better World』の実現や、『Cross Value Innovation』という表現を用いて、お客様へのお役立ちを大きくていくことを目指している。M&Aをした会社には、まず創業者に触れるところから始まってほしい」と述べた。

 ここ数年の間に、パナソニックが買収したスペインのフィコサ、米国のハスマンは、経営トップ自らが、パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館や、パソナニックの迎賓館と言われる真々庵を訪問し、創業者の足跡や志に触れて、大きな感銘を受けたこと、そうした経験をもとに、その後のオペレーションや入り交じりのなかで大きな効果があったことなども明らかにした。

最初の買収は合成樹脂企業

 今回の特別展示では、松下幸之助氏が会長を退任する1973年までのパナソニックのM&Aについて、パネル展示などを通じて解説していた。

 これらをみると、パナソニックの事業拡大の歴史は、意外にも買収によるものが大きいことがわかる。そして、そこには、現在、パナソニックが推進しているM&Aに対する基本的姿勢のベースになっていることが伺いしれる。

橋本電器から買収し、製品化したマーツライトブランドのタンブラスイッチとプレート。1934年の製品

 パナソニックの最初のM&Aは、1929年の橋本電器の買収であった。

 いまでも社内に続く「要綱」および「信条」を制定し、公的観点からの経営へと志向しはじめた時期に、知人を通じて、兵庫県明石市の橋本電器の経営を引き受けてはどうかという話が創業者に持ち込まれたという。橋本電器は、ベークライト絶縁物を主体とする合成樹脂のラジオ部品工場を運営しており、配線器具材料として合成樹脂を研究中だった当時のパナソニックにとっては、買収対象としては最適であった。

1939年に発売されたプルスイッチB
1940年に発売された四段点灯器

 ラジオの普及期にあわせて、橋本電器の経営は急拡大したが、昭和初期の不況や放漫経営により経営が悪化。倒産寸前となっていたのが当時の状況だったという。あと4カ月も放置しておけば破産し、安く買収できることはわかっていたが、松下幸之助氏は、「一時も早く引き受けて、現在の値打ち相当で買うことが、橋本氏に対する礼儀」として話を進め、橋本電器を資本金10万円の日本電器製造に改組。株式の大半をパナソニックが出資し、その出資金で橋本電器の債務を完済したという。

 ちなみに、パナソニックの当時の月商は約20万円。資本金10万円の橋本電器の買収が大きなものであったことがわかる。

日本電器製造の成形工場の様子

 日本電器製造の初代社長には、のちに松下電工の社長に就任する亀山武雄氏が就任。パナソニックが主導権を持って再建に当たったが、独特の風土を持った制度や慣習を持つ橋本電器の経営改革は困難を極め、改革推進役であった亀山社長自らが危害を加えられそうになったことも一度や二度ではなかったという。だが、パナソニックの経営方針を踏襲した再建により、半年足らずで赤字を克服。その後、パナソニックの模範工場と言われるまでに成長したという。

 キーソケットをはじめとした合成樹脂配線器具を生産。「マーツライト」というブランド名で配線器具を売り出し、パナソニックの発展に寄与したという。

 このとき、松下幸之助氏は、「この会社を経営して得た最大の収穫は、亀山(=亀山武雄社長)を中心とする社員たちが、いかに困難な取り組みであっても、成功を期して誠心誠意当たれば、必ず成就するという強い信念を得たことであった」と語ったという。

ライバル会社を口説き落とした幸之助氏

 2番目の買収となった1931年の小森乾電池の買収は、松下幸之助氏の驚くべき経営判断が発端になったものだ。

 パナソニックは、1922年に砲弾型電池式ランプの製造、販売をスタート。これが経営の柱となるランプ事業の始まりであったが、当時はランプに使う乾電池はすべて、東京の岡田電気商会から仕入れていた。だが、1927年に発売したナショナル角型ランプの販売が予想を上回る好調ぶりとなり、岡田電気商会からの調達では間に合わなくなってきた。

1927年に発売したナショナル角型ランプ。初めてナショナルのブランドを使用。買収の発端となった製品でもある

 そこで松下幸之助氏がとった手段は、岡田電気商会と相談した上で、岡田電気商会のライバル会社である小森電池製作所に対して行なった、「当社の専属工場になってもらえないか」という提案であった。最初はその提案に唖然としていた同社の経営トップであったが、すぐにその提案を承諾。

 さらに、小森電池製作所の工場を視察した松下幸之助氏は、「ナショナル乾電池の製造工場になるからには、品質向上と増産に邁進し、少なくとも現在の3倍の増産計画を立ててもらいたい。そのためには新工場の建設をお願いしたい」と提案。これを受けて、小森電池製作所はパナソニックの専属電池工場となった。

 現在に当てはめれば、パナソニックとテスラの提携関係は、電池を生産するパナソニックと、旺盛な需要を背景に生産増を要求するテスラというように、この立場が逆になったようにも見える。

小池電池製作所を買収して生産したパナソニックの乾電池第1号

 こうしたなか、松下幸之助氏は、ランプをさらに広く使ってもらうためには乾電池の価格引き下げが必要だとして、一層のコストダウンを申し入れたが、それをすぐに承諾した岡田電気商会に対して、小森電池製作所の回答は、「工場経営はあなたの方が上手である。この工場を引き受けて、松下の方針通りにしたらどうか」という提案をしてきたという。

 熟考した松下幸之助氏は、岡田電気商会の快諾を得て、買収することを決断。買収した工場は、松下電器第八工場に改称し、事業が継承された。このとき、小森電池製作所をやめた社員はゼロ。パナソニックからは、一人も社員を派遣せず、高齢のために退いた小森電池製作所の創業者以外は運営体制をそのまま維持した。

小森乾電池を買収して松下電器第八工場として稼働
当時の新聞広告。「国産30万個、山間僻地隈なく照らす」のコピー

 これは、橋本電器の買収とは異なる方法であった。だが、経営方針の徹底は重要であると考えた松下幸之助氏は、約2カ月間、毎日2時間、工場に出向いて指示をしたという。

 ちなみに、1932年には、岡田電気商会の辻堂工場を買収し、関東地区の生産拠点にするとともに、1935年には同社とともに、ナショナル乾電池を設立し、自動車用蓄電池の生産を開始した。

岡田乾電池から買収した辻堂工場の様子
1935年に行なわれたナショナル乾電池の創立記念式の様子

冷蔵庫の開発に向けて、資料を見ることなく1時間で買収を決意

 1952年の中川機械との提携は、当時、洗濯機に続く大型電化製品として、冷蔵庫の開発を進めていたパナソニックにとって、その事業化に向けて大きな追い風になるものだった。

 中川機械は、進駐軍向けの冷蔵庫として高い実績を誇っていたが、戦後の進駐軍の引き上げにあわせて一般消費者向けの製品へと転換する必要があった。技術力を持つものの、販売ルートがなく、事業継続には課題が生まれていたところだった。中川機械の社長であった中川懐春氏は、「事業を継続するならば松下電器と一緒にやりたい」と判断。

 会社の実状をすべて松下幸之助氏に話し、「引き受けてくれるのならば一切を任せる」と申し出たという。この中川氏の利害を超越した態度に感銘した松下幸之助氏は、資料を求めることも、工場を視察することもなく支援を決意。1時間もかからずに提携を決意したという。

1953年の中川電機大阪工場の様子

 この提携では、生産は中川機械、販売はパナソニックが担当。資本はパソナニックが50%を出資した。

 だが、当時は、家庭用冷蔵庫の需要はまだ本格化していなかったため、まずは洗濯機の生産を中川機械に依頼。1952年に発売した中川機械の洗濯機は、それまでの半値に近い2万8,500円で販売されたことで、大きな反響を呼んだ。

中川機械が生産したパナソニックの冷蔵庫第1号機

 このとき、松下幸之助氏は中川機械を訪れ、「洗濯機は初めての生産であり、不測の事態が起こるかもしれない」と語り、「風呂屋さんは開業したら、はじめの2、3日はサービスで特別開放する。中川機械もそのつもりで、2、3年は辛抱してやってもらわなくてはならない。だが、この洗濯機の生産は、今後の試金石のひとつになる」と期待を寄せた。

 1953年に中川氏は渡米し、50日間に渡って視察。新冷蔵庫工場の建設の構想を練り、1959年には日産300台以上の冷蔵庫を生産する東洋一のオートメーション工場を完成。これがパナソニックの冷蔵庫のシェアを第2位までで引き上げることにつながった。

1959年に稼働した冷蔵庫の最新鋭工場の様子

さらに、中川氏は、2ドア冷凍冷蔵庫の開発を決意。このとき、滋賀県草津に、冷蔵庫とエアコンの世界的な工場を建設したいと松下幸之助氏に進言。当時資本金が24億円だった中川機械(当時は中川電機に改称)は、総額35億円を投資する社運をかけた投資を行ない、33万m2の土地を取得。

 1969年の新工場稼働とともに、日本初の2ドア冷蔵庫を生産し、単一機種で17万台を生産する大ヒット製品を生んだ。中川氏は、その後、パナソニックの副社長に就任。パナソニックの冷蔵庫事業、そして洗濯機事業を成長させる立役者となった。

1970年に草津工場を視察する、松下幸之助氏(左)と案内する中川懐春社長(中央)

なぜ日本ビクターを独立企業として残したのか?

 日本ビクターの買収も、パナソニックにとっては大きな出来事だった。

 経営危機に陥っていた日本ビクターを再建してほしいと、日本興業銀行からパナソニックに話が持ち込まれたのは、1953年のこと。

 戦災で壊滅的な打撃を受け、資本金2500万円の日本ビクターは、4億5,000万円の負債を計上。元親会社の東芝をはじめ、多くの企業や金融機関は、この再建を引き受けることを躊躇していた。最後の候補が日本進出を狙っていた米RCAであった。そんななかで、日本ビクターには一度も訪れたことがなかった松下幸之助氏は、その再建を引き受ける決断をしたのだった。当時のパナソニックの資本金は5億円。その会社が4億5,000万円の負債を持つ会社を買収するのは無謀ともいえた。

 だが、松下幸之助氏は、当時の日本では、米国資本が入ってくることは、日本の経済にとって大きな打撃を与えると考えたこと、そして、「ビクターは、いま、金の上に泥をかぶっていて、その価値が外に出ていない。その泥を落とせば、中身の金が燦々と輝くと考えた」ことにあった。

 日本ビクターが持つ価値を高く評価していたのだ。

 しかも、松下幸之助氏はここでひとつの決断をした。それは、ビクターの「犬」のマークを残すために、パナソニックのなかには取り込まず、技術開発から販売に至るまで、独立した企業として再建するということだった。

松下幸之助氏はこのマークを残すために独立企業として日本ビクターを残した

 だが、初めて工場を見学した松下幸之助氏は驚いた。工場のなかで、立ち小便をしている従業員がいたり、午前8時始業にも関わらず、午前9時を過ぎないと出社しない従業員ばかりだったのだ。

 「技術が優れていたが、経営がない」と判断した松下幸之助氏は、自らが会長に就任するとともに、元海軍大将であり、特命全権大使として米国に赴任し、戦争回避にも尽力した経験を持つ野村吉三郎氏を社長に、実質的な経営者として住友銀行出身の百瀬結氏を副社長に登用。社員の意識改革と、経営再建に取り組んでいった。

 その結果、日本ビクターは、1955年にはほぼ再建を果たし、金融機関からは10年かかっても返済は難しいと言われていた負債を、4年3カ月で完済。その後のVHSビデオの開発などにおいて貢献し、ビデオ戦争でパナソニック主導のVHSが、ソニーを中心したベータ陣営に打ち勝つ原動力となったのは周知の通りである。

1963年、日本ビクターの幹部に話をする松下幸之助氏
日本ビクターの犬のマークが入った旗を持つ野村社長(右)、百瀬副社長(中央)ら
日本ビクターが開発したVHS方式採用のマックロード88

異例の「経営指導料」で、日本の産業発展に貢献したフィリップスとの提携

 パナソニックにとって、過去最大の提携は、蘭フィリップスとの提携だといえよう。ここでは、松下幸之助氏の日本のエレクトロニクス産業に対する想いや、決断に至るまでの迷いや葛藤など、様々なエピソードが残っている。

 1951年初頭に、初めて渡米した松下幸之助氏は、戦後の日本のエレクトロニクス産業の発展には欧米の先進技術を導入することが不可欠だと考え、同年10~12月にかけて、欧米各社を訪問した。このときの渡航目的は、提携先を探すことであった。多くの企業を訪問するなかで、最終的には、戦前から取引があったフィリップスとの交渉を開始することを決定した。

 フィリップスには、技術力があること、経営内容が良いという点に加えて、1人の事業家が電球の製造を開始し、全世界に300近い工場と拠点を持つ歴史が、同じような出自を持つパナソニックと重なり、学ぶ点が多いと判断したことが理由だった。

1952年当時のフィリップス本社の様子

 だが、交渉は難航。フィリップスが提示した条件に対しても、「この提携が本当に正しいのかどうか」と、松下幸之助氏は悩みに悩んだという。

 フィリップスと共同出資で設立する子会社の資本金は、6億6,000万円。当時のパナソニックの資本金は5億円。しかも、初期契約料で2億円を支払うことを要求された。この初期契約料は、フィリップスが出資する30%の出資比率に見合ったものであり、実質的にはパナソニックが全額支払う内容になっていたともいえた。しかも、フィリップスは、技術援助料として、設立する子会社の売上高の7%を要求してきた。米国企業ならば3%であったものを遙かに超える条件だったのだ。

 「これだけ巨額の一時金を払ってまで契約しなければならないのか」。松下幸之助氏は何度も自問自答した。だが、その一方で、こうも考えたという。

 「フィリップスの研究所を自前で持てば、その設備だけで数100億円かかる。しかも、3,000人もの優れた技術者は金では買えない。総合研究所は、いまの日本の一企業ではとても持てない。だが提携すれば、自分の研究所同様になる。フィリップスという大番頭を雇うことができる」

 そして、もうひとつ、松下幸之助氏が打った手は、前代未聞ともいえる「経営指導料」を要求するというものだった。これはフィリップスの「技術援助料」に対抗する驚くべき発想だった。

 「松下電器も、フィリップスと共同で設立する子会社に経営責任者を送り、経営の指導援助をする。子会社の経営を成功させ、生産、販売の実績をあげてこそ、フィリップスは技術援助料を受け取ることができる。フィリップスの技術援助に価値があるのならば、松下電器の経営指導にも価値があっていい」と松下幸之助氏は語り、これをフィリップスに逆提案した。このとき、オランダに渡り、交渉に当たったのが、当時の高橋荒太郎専務であった。

1952年に、オランダで提携交渉中の高橋荒太郎専務(左から2人目)

 強気の条件で、忍耐強く交渉を続けた高橋氏は、技術援助料が4.5%に対して、経営指導料を3%という契約を最終的に勝ち取ったが、「どうしてもこちらの条件が受け入れられない時は、破談になってもいい。一切は任す」という松下幸之助氏の言葉を胸にして、交渉に臨んでいたという。

 のちに、松下幸之助氏は、フィリップスとの契約がまとまり、調印式に臨んだときのことを振り返り、「この提携が真に正しいか、誤りがないか、曖昧な心の状態で調印したのが事実である。ここに及んで迷いが生じることは、自分の未熟さを表すものであり、それを自分で叱った」と語っている。

オランダで契約書にサインをする松下幸之助氏
フィリップスとの技術・資本提携契約書(複製)

 だが、こうも語った。「ここで大切なのは、手探りであっても、そこに私心をさし挟まなかったことである。私心がなかったことは、顧みて得とし、是としている」とした。

 この結果、1952年に誕生したのが松下電子工業である。

 フィリップスは協定品目に関する技術顧問を松下電子工業に常駐させて技術指導を行ない、パナソニックからも技術者をフィリップスに派遣。さらに、最新鋭の自動製造機械がパナソニックに提供された。

フィリップスの技術顧問から指導を受けている様子

 だが、松下電子工業は、設立から数年間の業績が芳しくなかった。このとき、会見で、「技術提携は失敗ではないか」との質問が記者から飛んだ。

 これに対して、松下幸之助氏は、「何度となく失敗ではないかと思って反省もした。だが、必ず成功すると信じている。なぜならば、フィリップスとの提携は、松下電器の発展のためでも、松下幸之助の名前を世間に広めるためでもない。日本のエレクトロニクス産業を、一刻も早く、世界水準に持って行きたいという一心からである。決して私心で提携したのではない。だからこそ成功すると思う」と回答してみせた。

1965年の松下電子工業の社屋
1969年にフィリップス本社を訪問した松下幸之助氏(左から2人目)と、フィリップス社長(左から3人目)

 松下電子工業では、電球、蛍光灯に留まらず、真空管、ブラウン管、半導体などを生産。さらに、生産手法や経営管理に関しても、フィリップスが採用していた最新の手法が導入されたという。

 フィリップスとの提携は1993年まで続いたが、その間、この提携が、パナソニックの成長を下支えし、日本のエレクトロニクス産業の発展に大きく寄与したのは間違いない。

松下電子工業の真空管を使用し、電池寿命の長さが評価され大ヒットした4球ポータブルラジオ「PL-400」
1955年に発売した松下電子工業の真空管を使用した「5X-521」
フィリップスから輸入して、パナソニックが日本で発売していた白黒テレビ「TX-17221A-90」
1955年にフィリップス製の真空管を使って開発した日本初のトランスレス方式白黒テレビ「14T-549B」
1958年に発売した、松下電子工業のブラウン管を使用した白黒テレビ「T-14C1」

恩人となった企業をのちに買収する「縁」

 松下幸之助氏の創業当時のエピソードのひとつに、ソケットが売れずに苦境に陥ったとき、あるメーカーから、扇風機の碍盤(がいばん)の注文を受けて、窮地を脱したという話がある。このときに発注したメーカーが、川北電気である。

 「創業当初の川北さんからの注文がなかったら、松下電器の今日があるかどうかわからない」と松下幸之助氏が述懐するように、この受注によって、首の皮一枚がつながったのだ。

 1949年、パナソニックに、日本電気精器から提携の話が持ち込まれた。戦後に入り経営悪化に陥った日本電気精器は、国内販売強化を探るなかで、パナソニックとの提携することを選択したのだ。同社は、1909年に創業した扇風機の老舗メーカーで、当時は、「KDK」のロゴマークが国内外でよく知られていた。

 実は、この「KDK」の意味は、川北電気企業社の頭文字をとったもので、提携を持ち込んできた日本電気精器の前身が、川北電気だったのだ。

日本電気精器が生産したナショナル扇風機。1952年に発売された

 「日本電気精器の前身が川北電気であると聞いたとき、ピーンと胸に響くものがあった。これはよくよくの縁だと感じて、話はとんとん拍子で進んだ」と、松下幸之助氏は語ったという。

 パナソニックが、戦争で中断していた扇風機の生産を本格的に開始しようと考えていた矢先であったことも、この提携話を推進する追い風になった。

 話し合いの結果、重複投資を避けるため、日本電気精器に扇風機の生産を全面的に委託。販売はパナソニックが引き受けた。その後、事業の拡大に伴い、製販一体経営が望ましいと判断。

 日本電気精器の大阪製造所が分離独立し、扇風機専業のパナソニックグループの1社として、大阪電気精器を設立。1962年には松下精工、2008年にはパナソニックエコシステムズに社名を変更し、現在に至っている。

1958年当時の扇風機の生産ラインの様子
大阪電気精器から松下精工に社名変更後に発売された高級お座敷扇「30MD」
1975年に発売されたた航空機の翼をヒントに開発したQ羽根を採用した「松風シリーズ」
松下精工の送風技術とヒーター技術を組み合わせて開発されたニコニコファンヒーター「FE-800」
当時から空気に関する様々な製品を開発していた。写真は1970年に発売した遠心噴霧式加湿器「ハーモニー」

経営理念の徹底で再建を果たす

 パナソニックは、現在でもファクシミリ事業を継続しているが、これもM&Aによってスタートした事業である。

 1936年に国策通信社として発足した、同盟通信社の技術研究所を母体としている東方電機は、日本のファクシミリ事業の草分け的存在であったが、戦後のファクシミリ利用が制限されるなか、経営が悪化。パナソニックに経営再建を委ねた。

 同盟通信社の創始者である古野伊之助氏から、「ファクシミリが社会的に必需品になるには少々時間がかかる。その間、相当の損害が出ることになる。私はもう歳であり、このままでは死んでも死にきれない。すべてを任すので再建を引き受けてほしい」と言われた松下幸之助氏は、「最善を尽くす」と約束。東方電機の規模や従業員数などの具体的な話はなにもせずに数分で話を決めたという。

松下幸之助氏(右)と、同盟通信社の創始者である古野伊之助氏

 東方電機の再建に向けて、1963年度から5カ年の再建計画が打ち出されたが、そのなかで重視したのが経営理念の徹底であった。「経営の基礎は人である」との考え方を実践。社員の教育を最重要事項に掲げながら、再建に取り組んでいった。

 当初は、「経営理念でメシが食えるか」と叫んでいた組合幹部に対しても、「松下の経営理念は素晴らしい。何よりの宝だと考えている。これを素直に受け入れるのならば、再建は立派にできる」と、パナソニックから送られた幹部は発言。深夜にまで及ぶ労使懇談会を毎週開いて、膝をつきあわせて激論。再建に向けて一致団結を訴え続けた結果、組合執行部から「再建に対する決意表明文」が提出された。

 1963年度以降、業績は急速に回復。その後、松下電送に社名を変更し、通信事業をパナソニックの重要に事業の柱のひとつに育てあげた。

1973年に発売したパナファクス2000。日本初の事務用電話ファクシミリ
1974年に発売した携帯形写真電送送信装置「201G」。日本初のトランジスタ採用で小型、軽量化を実現した

M&Aは今後も重要に経営戦略の柱に

 こうして同社のM&Aの歴史を振り返ってみると、冷蔵庫、洗濯機、AV機器などのパナソニックの主要な事業において、M&Aが効果をあげていることがわかる。

 なかには、パナソニックが、M&Aを積極的に行なってきた歴史などを知らず、M&Aによって成長してきたイメージを持たない人もいるだろう。今回の特別展示は、そうした人たちにとっては、少し驚きを持つ展示内容だったかもしれない。

 松下幸之助氏が第一線を退いたあとにも、パナソニックは、MCA(現ユニバーサル・スタジオ)や、三洋電機を子会社化するといった大型買収も行なっているほか、いくつものM&Aを継続している。M&Aは、必ずしも成功したものばかりではないが、パナソニックにとっては、重要な経営戦略のひとつであることは間違いない。

 そして、BtoBへのシフトを図り、グローバル展開を強化する現在のパナソニックにとっても、M&Aは欠かすことができない経営戦略であるといえよう。

大河原 克行