大河原克行の「白物家電 業界展望」

「日本初」を生み出してきた東芝の白物家電事業が6月30日付で売却、その歴史を振り返る

 東芝の白物家電事業が、2016年6月30日付けで、中国・美的集団(ミディアグループ)に売却される。白物家電事業を担当する東芝ライフスタイルの株式の80.1%を、約537億円で、美的集団に譲渡。東芝も一部出資を維持するが、連結対象からは外れることになる。

東芝の本社にある社名を記した看板

 美的集団は、グローバルで40年間に渡る東芝ブランドの使用権を持つほか、5,000件以上の知的財産を獲得。さらに、東芝が持つ家庭電器に関する知的財産も使用できることに。東芝ブランドの白物家電は、これからも継続的に開発、販売されるが、それは美的の傘下で展開することになる。

 長年の歴史を持つ東芝の白物家電の歩みを振り返ると、それは国産初、世界初の連続であることがわかる。東芝の白物家電の歴史を辿ってみた。

東芝の源流となる、「重電の芝浦製作所」と「軽電の東京電気」

 東芝には、2つの源流がある。

 ひとつは、1875年に日本で最初の電信設備メーカーとして設立された田中製造所である。創立者の田中久重氏は、からくり人形や万年自鳴鐘などを発明。「からくり儀右衛門」との異名を取る人物だ。わずか8歳で「開かずの硯箱」を考案したというから驚きだ。1850年に完成させた万年自鳴鐘(万年時計)は、重要文化財に指定されているほどである。

田中久重氏
万年時計(万年自鳴鐘)。7つの方向に和時計や洋時計などが配置される
茶運び人形。人形が持っているお盆に湯のみ茶碗を載せると歩き出す
からくりほととぎす。ねじを巻くと鳴き始める
茶運び人形を動かしてみた様子
からくりほととぎす

 その田中久重氏は、1873年に工部省(当時の政府機関)から受注した電信機を開発。受注拡大に伴い1875年に、東京・銀座に工場を設立。この地で「あらゆる機械の考案を引き受けます」という看板を掲げたのが東芝の始まりだったといっていい。東芝の発祥の地は銀座である。

 報酬や損得よりも、考案することや挑戦することに強い興味を持っていた田中久重氏は、どんなに小さな依頼に対しても、寝る間を惜しんで考案と発明にのめり込んだという。そのほか、汽車、蒸気船雛形、ボイラー、6ポンドアームストロング砲、凌風丸などの製作に携わり、西洋技術の導入に貢献。

 さらには、煙草切り機、醤油搾取機、種油搾取機、蝋締機、改良竈、傘ろくろ製造機、自転車、人力車、精米機、水車、鍍金法、製薬機、写真機、浚渫機、久留米縞織機、昇水機、無鍵の錠、ネジ切りゲージ、楕円削旋盤、モールス電信機といった幅広い製品開発に携わった。

1878年に作られた報時機。田中販売店の文字が入っている

 「人々の生活を明るく、楽しく」というのが田中久重氏の思い。それを具現化する製品が続々と登場した。

 1893年には芝浦製作所に社名を変更。“重電の東芝”の源流となる会社となっていく。

田中製造所と田中販売店の当時のパンフレット
様々な製品を取り扱っていたことがわかる
芝浦製作所第2工場のモーター組み立て作業
東京・浜松町にあった芝浦製作所の事務所建屋。1919年に撮影されたもの

日本のエジソンと呼ばれた藤岡市助~東京電気

 東芝の源流といえるもうひとつは、1890年に初の白熱灯製造会社として、東京・京橋に設立された白熱舎である。創業者の藤岡市助氏は、「日本のエジソン」と呼ばれた人物で、日本初の電球を開発。これは、その後の管球類の技術発展につながる基礎となった。東芝のエレクトロニクスの源流は、藤岡市助氏による電球開発に端を発しているといってもいい。

藤岡市助氏
藤岡市助氏の銅像

 16歳で英語の教壇に立つほどの英語力を持ち、18歳で工部省工学寮(東京大学工学部の前身)に入学して、電信科を専攻。1878年に日本初の電灯(アーク灯)を点灯させたW.R.エアトン教授に師事したほか、1884年にはエジソンを訪ね、「どんなに電力が豊富でも、電気器具を輸入するような国は滅びる。電気器具の製造から手がけ、日本を自給自足の国にしなさい」と言われたエピソードが残っている。

 美的への白物家電事業の売却が決定したいま、この言葉の意味は重たいといえよう。

 藤岡市助氏が最初に製造した電球は、当初2時間しか点灯しないものだったというが、その後、改良を加えて、輸入電球と変わらない品質へと高めていった。

エアトン教授の指導のもとに、藤岡市助氏が点灯させたデュボスク式アーク灯

 藤岡市助氏は1890年に、三吉正一氏とともに合資会社白熱舎を創設し、白熱電球の本格的製造を開始。1890年には、浅草凌雲閣に、日本初の電動式エレベーターを設置。1896年に白熱舎から東京白熱電燈球製造に社名を変更し、1899年には東京電気に社名を変更した。

 同社が、1911年から発売したタングステンランプは、「マツダランプ」のブランド名で知られた。これは、ゾロアスター教の光の神であるアウラ・マツダの名から取ったものだという。続いて1921年には、電球の6大発明の1つである「二重コイル電球」も発明している。

日本初の白熱電球。写真は複製品だが、このとき12個の電球製造に成功した
東京白熱電燈球製造の設立免許
マツダランプ
当時の看板。東芝の「マツダランプ」という呼び方をしていた

 藤岡市助氏が生涯に渡って信条としていたのが「至善」。これは、「最高の善」を意味する言葉で、白熱電球の国産化、日本初の電動エレベーターの設計や発電所建設など、日本の電気事業の発展に寄与。

 「人々の役に立つものを創り出すこと、そしてさらに良いモノを創ること」が、「最高の善」だと考えていたという。これも東芝のDNAとして根づいているものだ。

1890年代~1910年代に東京電気で作られていたカーボン電球やタングステン電球
灯火管制用電球。戦時中に各家庭で利用されていた
電灯点滅用スイッチ。1924年から製造されたという
テーブルタップもマツダブランドで展開していた
日本初の三極真空管。1917年に製造された
日本初のX線管。真空管技術を活用している
1915年に開発した花型電気ストーブ。素焼きの筒にニクロム線を巻いている
1932年に発売されたマツダ電気時計。台座は大理石だという
現在の川崎駅西口にあった堀川町工場。1915年に撮影されたもの
建設中の堀川町工場の様子
1916年に藤岡市助氏が堀川町の工場を視察した際の写真
東京電気でのマウント作業の様子
東京電気の大井工場での電球製造の様子
鶴見工場の様子。1925年に第1期工事が完成した
鶴見工場での捲線の作業の様子
だが鶴見工場は戦災の被害を大きく受けた

東京芝浦電気の誕生

 そして、1939年には、重電の芝浦製作所と、軽電の東京電気が合併して、総合電気メーカーとして東京芝浦電気が誕生。1984年には、社名を東芝に変更した。

 両社は、同じ三井財閥(銀行)の系列下であったことで、互いに株式を持ち合い、提携関係にあったことが合併の背景にある。

 技術の進歩に伴い、重電と軽電を組み合わせた製品の需要が高まっていたことを合併の理由とし、新会社スタート時から、「国際的に見て、世界屈指の大電気工業会社を目指す」という高い志を抱いていた。

1939年に芝浦製作所と東京電気の祝賀式の様子
合併の年に銀座・数寄屋橋にマツダビルが完成した
銀座8丁目にあった田中販売店
こちらは芝浦製作所の銀座販売店。1913年の様子だ
東京・数寄屋橋にあった銀座東芝ビルの様子
現在は東急プラザ銀座になっている

 合併後すぐに第二次世界大戦が始まった。戦時中の日本は、鉄や鋼材が貴重な資源であったため、家庭電化製品の生産が禁止されたが、国家の要請に応え、軍事物資として無線機や真空管および動力源となる発電機などの生産を急速に伸ばした。

 戦後は、重電を中心に生産を再開。さらに、復興が進むにつれて軽電も事業を軌道に乗せることに成功。東南アジアなどへの輸出も開始していった。1950年代後半からは、日本の高度成長にあわせて事業を拡大。同時に、海外での販売や製造の強化を図っていった。

 また、1973年からのオイルショックによる景気の悪化に伴い、「利益は企業活力の源泉、技術は企業発展の推進力」という考えを打ち出し、技術力強化のために研究開発投資を積極的に推進。多くの世界初、日本初の技術を世の中に送り出す地盤を作った。

 ちなみに、1984年の東芝への社名変更にあわせて、東京・芝浦に、現在の本社がある東芝ビルディング(現・浜松町ビルディング)が完成している。

 このように、東芝の歴史を見ると、まさに技術が支えてきた成長の歴史だといってもいい。

現在の東京・芝浦にある東芝ビルディング(現・浜松町ビルディング)

日本初の白物家電を多く生み出してきた東芝

 東芝の白物家電の歴史を振り返ると、日本初といった製品が、あまりにも多いことに驚く。

 東芝が白物家電において、最初の「日本初」を開発したのが、電気扇風機である。

 電気扇風機が日本に初めて輸入されたのは1893年。その翌年となる1894年に、芝浦製作所が直流エジソン式電動機の頭部に、電球を取り付けた日本初の電気扇風機を開発した。真っ黒で分厚い金属の羽をつけた頑丈な製品で、スイッチ操作一つで、頭部に電灯が灯ると、同時に羽根が回る複合製品であった。

1894年に発売した日本初の扇風機。電球がつき、同時に風が出る

 1916年には、一般の家庭でも購入できる低価格の「芝浦扇風機」を生産して人気を博したという。また、1920年には、東海道線の急行列車向けに直流扇風機を生産。窓をあけて換気することしかできなかった長距離列車の乗車客から大好評だったという。当時は、卓上用、天井用、換気用、鉄道車両用など幅広い製品を用意。「扇風機は芝浦」とのイメージを定着させた。

 高度成長期には、ユーザーの便利性を追求。無段変速装置、ワンハンド俯仰角調節装置、首振機構内蔵、ガードクリップ止めなどの独自の機能を採用していったという。

当時人気を博した芝浦電気扇。レバーを使って風力を4段階に切り替えられる
当時は提携関係にあった米GEのロゴマークを使っていた
家電事業の歴史を体現する電気アイロン

 日本初の電気アイロンも東芝だ。1915年に芝浦製作所が発売した国産初の電気アイロンは、重さ3ポンドと4ポンドの製品が用意され、当時の価格はそれぞれ約8円と約10円。小学校教員の初任給が50円の時代で、いまなら4~5万円に相当する高価な商品だったという。

 1954年にはスチームアイロン、1966年にはベース(かけ面)にフッ素樹脂加工を施したアイロン、1979年には、水タンクが透明で水量がひと目で分かるカセット式スチームアイロンをそれぞれ発売。さらに、コードリール付きアイロン、マイコンアイロンを投入。1988年にはコードレスアイロンを発売した。

 アイロンは地味な存在ながらも、東芝の白物家電事業の歴史を体現する製品のひとつだといえる。

芝浦電気の当時の家電製品のカタログの数々
自動絞り機付き撹拌式電気洗濯機「ソーラー(Solar)」

 日本初の電気洗濯機は、1930年に、芝浦製作所が開発した自動絞り機付き撹拌式電気洗濯機「ソーラー(Solar)」である。

 一方で、東京電気では、1927年から、米シカゴのハレー・マシンの「Thor(ソアー)」ブランドの製品を輸入販売していた経緯があった。その一方、芝浦製作所の「ソーラー」には、ハレー・マシンの技術が導入されたが、攪拌翼についてはGEの技術者であるノーブル・H・ワッツ氏の発明を採用している。

 攪拌翼は、アルミ中空体の3枚羽根が上から下に向かって20度の傾斜を持ち、毎分約50回、200度の往復運動を繰り返すことで洗濯する仕組みだったという。洗濯容量は約2.7kg(6ポンド)で、価格は370円。銀行員の初任給が約70円であり、一般家庭では購入できないほど高価だった。

1930年に、芝浦製作所が開発した自動絞り機付き撹拌式電気洗濯機「ソーラー(Solar)」
洗濯機はSolarのブランドで展開していた
現在でも動作する形で保存されている

 さらに、英フーバーの小型噴流式洗濯機を参考にした製品を1953年に発売。女性にとって、最も重労働な家事である洗濯からの解放を実現するための電気製品として注目を集めた。東芝の1955年頃の広告では「主婦の読書時間はどうしてつくるか」というメッセージを使っていた。

「主婦の読書時間はどうしてつくるか」とし、洗濯からの解放を宣言した

 東芝の洗濯機は、その後も技術進化を続け、業界をリードしていった。中でも、1997年に開発したDDインバーター全自動洗濯機は、同社の洗濯機のポジションを確かなものにする革新的な製品だったといえる。新開発のアウターローター方式DD(ダイレクトドライブ)モーターを採用することで、洗濯機の駆動機構を一変。騒音と振動を飛躍的に低減させることに成功したからだ。

 それまでは、騒音による迷惑を考え、多くの人が深夜や早朝の洗濯を避けていた。だが、DDモーターの採用によって、共働きが増加するという環境変化を捉えた利用提案が可能になり、「夜家事家電」の代表的製品となった。

 新開発のDDモーターと、洗濯槽を直接回転させるシンプルな駆動機構、振動低減技術との組み合わせで、「洗濯時は静かな公園並み」、「脱水時は図書館並み」という、画期的な静かさを実現したメッセージも注目された。

1952年に発売した大型撹拌式洗濯機「P型」。価格は2万8,000円
パルセータが30秒ごとに左右交互に反転する自動反転噴流式洗濯機「VQ-3」。1957年の発売
米GE製から国産化へのシフトを実現した家庭用冷蔵庫

 電気冷蔵庫の歴史は、1927年に当時の東京電気が、米GEの製品を三井物産経由で輸入販売したことに始まる。同時に国産化を目指した開発に着手。その一方で芝浦製作所は、1929年から研究開発を始め、1930年には国産第1号の家庭用冷蔵庫である「SS-1200」が完成した。

 GEの技術を活用した電気冷蔵庫は、内容量125L、重量157kg。密閉型首ふりシリンダー圧縮機と凝縮器および制御装置がキャビネットの上に露出したモニタートップ型が特徴。そのデザインは、まるで金庫を思わせるような堂々とした風格だと言われた。

 1933年、芝浦製作所が純国産電気冷蔵庫を開発。価格は720円と、庭付き一戸建てが購入できるほどの超贅沢品だったという。当時、米GEに出向中の役員は、「日本の技術力では、開発は無理」と言われたが、それを克服しての国産化だったという。

 1935年には、圧縮機や凝縮器をキャビネットの下部に納めたフラットトップ型冷蔵庫を発売。その後、年を追うごとに改良が加えられ、冷蔵庫は日本の家庭へと普及していくことになる。

日本初の電気冷蔵庫。圧縮機、放熱器などがキャビネットの上に露出したモニタートップ型
内部の様子を特別にみせてもらった
1957年に発売した冷蔵庫「GR-820」。扉内側にはプラスチック射出成形のポケットが設けられている
2ドアが特徴だった1981年発売の「GR-251AG」

集じん袋を備えたアップライト型真空掃除機

 1931年、芝浦製作所が米GEの製品を参考に開発したのが、アップライト型真空掃除機「VC-A型」である。これが日本初の電気掃除機だ。価格は110円で、当時の大卒初任給の半年分に当たる高価なもの。

 本体は高価だったが、電気代は、1日1時間使っても1カ月45銭程度とごく僅か。床上、天井が掃除できる長さ89cmの木製の柄が、ねじ込み式でモーターについており、鴨居やソファーの下などを掃除するには、クロームメッキ仕上げの75cmの金属パイプの延長管を使えるようになっていた。

 また、収塵袋(集塵袋)は、埃を濾過させるフィルター効果と、通気性を考慮して、布を縫い合わせた袋状になっていた。吸込用床ブラシとモーターが一体化した先端部には走行車輪がつき、軽く手で押すだけで掃除ができるよう工夫されていたほか、掃除し易いように柄の角度も可変できる構造になっていたのが特徴だった。

1931年に芝浦製作所が開発したアップライト型真空掃除機「VC-A型」
収塵袋は布を縫い合わせた袋状のものを採用
1950年代に製品化されていた掃除機

炊飯器やクーラー、こたつも「日本初」

 そのほかにも東芝の「日本初」は多い。

 東芝の協力会社である光伸社の三並義忠社長が発明した日本初の自動式電気釜は、3年の歳月をかけて1955年に完成させたものだ。

日本初の自動式電気釜「ER-4」。月産15万台を超えるヒット製品となった

 98℃の温度で約20分炊き続けると、釜全体の米がα澱粉化して、おいしく炊けることを突き止め、そのための技術を開発。

 釜が沸騰し始めたことを検知し、水の蒸発をタイマー代わりに応用するというユニークな発想を採用。20分後に正確にスイッチを切ることができる「三重釜間接炊き」によって、おいしいご飯を炊き上げたという。

内部の釜が2つに分かれている。飯ごうのような形状だ
当時の炊飯器の広告
ルームクーラー「コールデア」

 1953年に開発した「コールデア」は、日本初のウインドウ形ルームクーラー。開発チームは、実験室の湿度を上げるために、バケツで床に水をまき、室内外の温度と湿度を測定。盆も正月もない連日徹夜に近い作業のなか、約10カ月で製品を完成させたという。

 東芝のエアコンの歴史のなかで見逃せないのが、1980年に発売した世界初の業務用インバーターエアコンである。大電力トランジスターや、マイコン制御による「正弦波近似パルス幅変調方式」を採用することで、従来のインバーターの6分の1という小型、軽量化を実現。

 さらに、この技術を、家庭用インバーターエアコンの開発にも応用。様々な試行錯誤の繰り返しを経て、1981年12月に製品を発表。エアコン技術史に大きな革命を起こしたとして、(財)新技術開発財団から「市村産業賞」を受賞。(社)電気学会からは第一回「でんきの礎」に登録されている。

爆発的ヒットになった「やぐらこたつ」

 また、1956年に、東芝電燈器具(現東芝ホームテクノ)の定例開発会議でアイデアが生まれた「やぐらこたつ」も、日本初の製品。やぐらの上部に下向きヒーターを取り付けるという発想で、やぐらこたつのなかで、足を自由に伸ばせるようにし、爆発的ヒットを記録する製品となった。

やぐら式こたつ。1957年から発売している
家庭用もちつき機「もちっ子」

 家庭用もちつき機として大人気となった「もちっ子」も、東芝が発売した日本初の製品だ。「どこの家庭でも、手軽につきたてのもちが食べられるもちつき機ができないか」というコンセプトをもとに開発が進められた。

 臼の底に取り付けた羽根の形と回転数を変える実験を繰り返す一方、「つくだけの機械」に、「蒸すためのボイラー」を組み込むことに成功。「杵つきのもち」に近づけることができたという。

 1971年の発売以来、爆発的な売れ行きをみせた。ちなみに、羽根を回して調理する技術は、その後のホームベーカリーの開発などにも活かされている。

電子レンジ

 そして、日本初の業務用電子レンジも東芝である。

 1959年に国産第一号機を完成させた東芝は、1960年に開催された大阪国際見本市に出品。1961年には市販第一号機を発売し、国鉄(現JR)の食堂車や東海道新幹線のビュッフェにも導入。1965年からは食堂やレストランでも広く利用されるようになった。当時の価格は125万円。初任給が約1万円であったことに照らし合わせると、かなり高価な製品であったことがわかる。高さは1.8メートルと、いまの家庭用電子レンジに比べると大型だ。

国内初の業務用電子レンジ「DO-2273B」。新幹線にも採用された
内部の様子

 東芝は、6月14日に、石窯ドーム初のフルモデルチェンジとなる過熱水蒸気オーブンレンジ「ER-PD7000」を発表したが、これが東芝の白物家電買収前に発表した最後の白物家電となった。

 東芝の電子レンジ事業の集大成ともいえる製品で、業界ナンバーワンとなる350℃の高火力を実現する一方、庫内の四隅を丸くした新設計の石窯ドームシステムを採用。「オーブンの東芝」に名に恥じないものとなった。

1969年に発売した家庭用電子レンジ「ER-501S」。価格は14万9000円
東芝最後の白物家電となった過熱水蒸気オーブンレンジ「ER-PD7000」

 このように東芝の歴史を振り返ってみると、日本の白物家電の歴史を作ってきた企業であることがわかる。

 これから、美的集団の傘下で、歴代の白物家電製品に息づいたDNAを維持しつづけられるのか。それが変わらないことを期待したい。

東芝が世の中に送り出した家電製品たち

1952年に発売したトースター「TT-1」
ゆで卵器は、時間設定や温度管理をせずにゆで卵ができる画期的な製品だった
アイスクリーム製造機も製品化していた。1958年の製品だ
電気包丁とぎ機能付きのカンオープナー
1950年代に製造した電気フライパン
日本初の電気カミソリ。これは試作品であり、1949年から一般発売された
電気保健機。電動機の回転を振動に変え、ベルトに伝え、肩、腰、足などにあててマッサージする。1931年に発売
真空管式ラジオ受信機。1925年に発売
1954年に発売されたポータブルラジオ「コンパニオンC」
内部に真空管が利用されているのがわかる
据え置き型はバードシリーズと呼ばれた
真空管式ラジオの「うぐいすGS」
1956年に生産されたマツダフォノラジオ「TRE-3形」。乾電池で利用できる
1957年から量産を開始したトランジスタラジオ第1号機「6TR-127」
1960年に発売した2バンド大型トランジスタラジオ「8TL-463S」
1963年に発売されたトランジスタラジオの「ヤングセブン」。大ヒットした製品だ
東芝が発売した数々のラジオ製品群
ラジオと電気蓄音機併用のマツダオリオン電気蓄音機。1933年に発売。価格は265円
1940年に発売した蛍光灯スタンド。法隆寺金堂の壁面模写の際に使用された
東京電気が製品化に成功した10Wおよび20Wの蛍光灯
1980年に発売して話題を集めた電球形蛍光灯ネオボール
1953年に発売したテレビ受像機「73A形」。最大で17型サイズだった
1955年に発売した「14LA」
TOSHIBAのロゴとマツダのロゴが入る
当時のテレビにはチャンネルが6つしかなかった
1958年に発売した14型白黒テレビ「14EK」。価格は6万3000円
1960年に発売となった21型カラーテレビ「D-21WE」
1964年に発売したカラーテレビ「16WR」。価格は17万5000円。米国にも輸出された
リモコンを取り外せるタイプのテレビ「20G600」
リモコンを取り外したところ
1965年にカラー受像管専門工場の姫路工場で作られた国産初のカラーブラウン管
東芝独自のブラックストライプ方式ブラウン管。1972年から量産した
ブラックストライプ方式ブラウン管を採用した「20T25S」
世界初の家庭用短管式カラーカメラ。1974年に発売。価格は29万8,000円
1979年発売したヘッドフォンステレオ「Walky」
東芝が発明したヘリカルスキャン方式を採用したVTR。この方式は世界中で利用された
Vコード方式のカラービデオカセットレコーダー
東芝はベータ方式とVHS方式のどちらも製品化していた
世界初のDVDプレーヤー「SD-3000」。1996年に発売した
世界初となったHDD&DVDレコーダー「RD-2000」約33時間30分の録画が可能
次世代DVDとして東芝が提供したHD DVD規格の「HD-XA1」。だが対抗するBDが主流となった
ソニー、IBMと共同開発したCELLチップを搭載した、CELLリファレンスセットを開発
CELLチップを搭載した基板
手動式計算機「20-TB」。20桁の計算が可能な製品。1959年の発売
1965年に発売した電子式卓上計算機「BC-1001」。価格は36万円。「トスカルでタスカール」のCMが人気だった
東芝が製品化していた電子式卓上計算機
和文タイプライターも開発していた。のちのワードプロセッサにつながる
1978年に開発した世界初の日本語ワードプロセッサ「JW-10」。価格は630万円
JW-10に比べて体積を20分の1にした「JW-1」。価格は59万8000円。ポータブルワープロの原型になった
パーソナルワープロ「Rupo」シリーズの最初の製品となった「JW-R10」
世界初のラップトップPC「T1100」。1985年に発売。キング・オブ・ラップトップの称号を得た
日本初のラップトップPCとなる「J-3100」。1986年に発売。CPUには80286を搭載している
日本初のノートPCとなったDynabook「J-3100SS001」。発売は1989年のこと。19万8000円。
東京電気の社歌。1934年に作られた
東芝にはかつて「東芝増産音頭」という歌があったという

大河原 克行