大河原克行の「白物家電 業界展望」

被災した日立アプライアンス多賀事業所の復興の道のりを辿る 前編

~震災後わずか11日で生産再開できた理由とは
by 大河原 克行
日立アプライアンスの多賀事業所本館

 日立アプライアンスの主力生産拠点である茨城県日立市の多賀事業所。2011年3月11日に発生した東日本大震災では、震度6強という強い地震に見舞われ、生産棟を含む4つの建屋が解体を余儀なくされるという甚大な被害を受けた。

 大手家電メーカーの白物家電生産拠点としては、唯一被災した拠点だ。だが、復興への取り組みは、日立グループのなかでもいち早く、震災11日後の3月22日朝から生産を再開するという力強さをみせた。

 日立アプライアンスで白物家電事業を統括する石井吉太郎常務取締役が、被災時から約10日間に渡り多賀事業所に留まり、自ら陣頭指揮を執ったことも迅速な復興につながったといえよう。日立アプライアンスの被災後から現在までの経過を追った。

地震から8分後に災害対策本部を設置

日立アプライアンス 常務取締役家電事業部長・石井吉太郎

 2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災の発生時、多賀事業所には、石井常務取締役以下、約80人の役員、幹部社員が集まり会議を行なっていた。

 多賀事業所は、JR常磐線の常陸多賀駅に隣接する場所にある。正門までは車で約5分の位置であり、敷地面積は東京ドームの約7.5倍となる47万平方mの広さを誇る。敷地内には、1939年に設立した当時の建物も依然として残っており、まさに日立の家電事業の象徴的生産拠点である。

 地震発生は、ちょうど石井常務取締役が、役員、社員に対して話をしていたタイミングだった。地震が始まっても、最初のうちは、話を止めることはなく、出席者もその言葉に耳を傾けていた。

 茨城県は比較的地震が多い地域でもあり、石井常務取締役も多賀事業所で、震度5前後の地震を何度か経験しているという。「すぐに収まるだろう」という、いつもの調子で話を続けていたのだ。

 しかし、しばらくしても地震は収まらない。

 「これは違うぞ」

 徐々に大きくなる揺れに、どこからか「すぐに机の下に隠れろ!」という声が飛んだ。

 揺れが収まりつつあるの確認して、会議に出席していた多賀家電本部の五月女京次副本部長は、正門横の守衛室に向かって駆け出していった。災害時には、災害対策本部を設置することが定められており、守衛室がその設置場所に決められていたからだ。

多賀事業所本館は2008年に全体的な耐震補強していたため、震災の影響は受けなかった多賀事業所の正門。左側の守衛室が災害対策本部の拠点となった

 地震から8分後の午後2時54分には、鎌田栄取締役を本部長とし、部長級の社員を中心とした約10人体制で災害対策本部を設置。社員の安否確認、被害状況の確認など行なわれ、多賀事業所に勤務している約3,000人の従業員全員の安全がすぐに確認された。短時間での安否確認が完了したのは、女性隊員を含む約100人体制で構成される自警消防団の日頃から訓練の賜物だ。統制の取れた活動によって、従業員の安全な誘導とともに、安否確認作業も効率的に行なわれた。

震災以降、災害対策本部の本部長を務めた日立アプライアンス 家電事業部多賀家電本部長・鎌田栄氏災害対策本部で実際に使用されたメモ。余震が続くなか、こまめに自警消防団との連携が進んでいることがわかる

 しかし、生産建屋49棟のすべてが被災し、電力、ガス、水道がストップ。そのうち4棟は、その後の余震で被害が大きくなり、解体しなくてはならない状況となった。多賀事業所全体の被害は、建屋関連の被災を含めて約1,000件にも及んだ。約300m先には太平洋があり、沿岸には約5mの津波が押し寄せたというが、多賀事業所は高台にあるため、その難からは免れた。

 午後4時には従業員の帰宅が開始されたが、ここでも約3,000人の就業者が出口に集中して混乱が起きないように、自警消防団の指示によって規律をもって順番に帰宅するという方法が取られた。

 従業員の自宅被災は356件。東京からの出張者などの帰宅困難者の43人がこの日、構内のホールに宿泊した。

 実は、3月12日には水戸市内の日立製作所の体育館で、合同展示即売会が開催される予定だった。日立グループの社員が数多く居住する日立地区での合展は、全国規模でみても大規模なもの。体育館では天井が落ちるなどの被害が出たため、当然のことなから開催は延期。この合展のための事前設営にきていた数多くの社員も、水戸市内で足止めを食ってしまった。

1週間以内での生産再開を目指す

 多賀事業所では、正門横の守衛室にある8畳間を災害対策本部の拠点にするとともに、石井常務取締役がそのまま多賀事業所に常駐。「お客様は日立製品を待っている。1週間で生産を再開しよう」を旗印に、すぐに復旧活動を開始した。

 多賀事業所では、洗濯乾燥機、掃除機、IHクッキングヒーター、炊飯器、電子レンジ、空気清浄機、照明といった製品を生産している。なかでも最も被害が大きかったのは照明の組立棟である。ここでは柱が傾斜し、建屋そのものを解体しなくてはならなかった。また、他の生産棟でも内部の柱が折れたほか、壁の湾曲や天井が落下したりした。生産技術部門が入る棟では建屋の壁が脱落し、エレベーターを解体・除去する必要に迫られた。

 さらに、洗濯乾燥機の生産棟では、600トン、800トンという大型プレス機、1,800トンの大型成型機を導入しており、これらが傾くといった被害もみられた。プレス機/成型機の復旧には、重機の活用が不可欠。そこで、外部の業者と連絡をとったところ、新潟県の業者の協力を得ることができ、いち早く復旧作業に着手することができた点は幸いだった。近隣のビジネスホテルの40室を一括で借り上げ、作業者が寝泊まりできる環境を整えたことも、効率的な復旧作業を下支えしたといえよう。

各棟の被災状況

 1週間後の生産再開を目指して、復旧作業は急ピッチで進んでいった。月曜日となった3月14日には、約1,000人の従業員が自主的に出社。その後も一日約200人が参加して復旧作業を行ない、建屋の補強、補修に乗り出した。

 最初に取り組んだのは、すべての現場の点検からだった。点検結果から、使用禁止として即時対応が必要な「Sランク」、メーカーによる対応が必要な「Aランク」、自らが対応する「Bランク」、後回しにし対応してもよい「Cランク」の4段階に分類。天井落下や崩壊の恐れがある部分はSランクに位置づけられ、優先度をつけながら作業を開始していった。ちなみに電気が復旧したのは3月14日、上下水道が復旧したのは3月15日。厳しい環境下での作業が続いていった。

すべての窓ガラスに、テープで補強が行なわれている構内には、まだ多くのひび割れが残っている

 幸いだったのは、日頃の改善活動の成果が生きたことだった。

 多賀事業所では、生産ラインにおける効率化を追求する提案・改善活動を続けており、現場のスタッフが自らスコップなどの治具(じぐ)を製作し、これを生産ラインで活用してきた。そのため生産ラインの復旧はもちろんのこと、建屋の補強、補修作業も自分たちで行なえるノウハウが蓄積されていたのだ。これも生産再開の時期を早めることにつながっている。

 3月15日に多賀事業所を訪れた日立製作所の川村隆会長は、同事業所の積極的な復旧への取り組みとその成果に感服したという。

3月22日からすべてのラインで生産を再開

 春分の日を加えた3連休が明けた3月22日。多賀事業所は、午前8時15分の定時から、すべての生産ラインを再稼働した。生産棟を解体することになった照明に関しても、別の生産棟を使用して生産体制を整えた。

3月22日から復旧したドラム式洗濯乾燥機の生産ライン大型機械は地震の影響で基礎部分が崩れ、傾くといった影響が出ていた地震対策として引き出しが飛び出さないようにロックをかけた

 再開初日の生産状況は計画値に対しては下回ったが、従業員の出勤率はなんと88%にのぼり、翌23日には早くも出勤率が90%台を超えることになった。

 この時点ではまだJRが不通であり、ガリソン不足のために自家用車での通勤もままならない状態。そこで、通勤用のバスを7台確保し、これを巡回させて従業員の出社をサポートした。なかには、約20km離れたひたちなか市から自転車で通勤する従業員もいたという。

 さらに、燃料不足、食料不足のため、社員食堂も簡易な弁当を用意するといった一部稼働に留まっていたため、各自弁当を持参して出社する形態だったという。関西地区の取引先をはじめとする数多くの企業から支援物資が届き、これも復旧活動や生産再開を後押しすることになった。

多賀家電本部 副本部長 五月女京次氏

 生産の計画達成率は日を追うごとに上昇し、数日後には計画を上回る生産量となった。

 「機械を動かしてみて初めて不具合がわかる部分もある。それらを検証し、修理して、再度動かすということの繰り返しによって、日を追うごとに生産数量を増やしていった」(五月女京次副本部長)。

1週間での生産再開にこだわった理由とは

 石井常務取締役が生産再開1週間という期限を設けたのは、日立製品を待っているお客様がいるからこそだ。白物家電の生産拠点が直接被害を受けた例は日立アプライアンス以外にはなかった。

 だが被災状況からいえば、1週間での復旧は至難の技だった。それを成し遂げたのは、多賀事業所の従業員の努力の賜物であったのは間違いない。

石井常務取締役は、震災以来、多賀事業所に留まり陣頭指揮を執り続けていた

 22日に生産再開が可能になったその日、震災以来、多賀事業所に留まり復旧に陣頭指揮を執ってきた石井常務取締役は、営業部門がある東京へと車で向かった。まだJRが開通しておらず、ガソリンも不足している状態。社用車に積んだガソリンは東京に向かうだけの量しかなかった。

 東京に着いた石井常務取締役は、営業部門に対して、多賀事業所での生産が再開したことを報告するとともに、受注活動を本格化するように要請した。被災後から、洗濯乾燥機、掃除機、電子レンジといった多賀事業所での主要生産品の受注活動を控えていた営業部門に、180度異なる指示をしたのだ。

 だが、営業部門はその言葉を聞いても慎重な姿勢を崩さなかった。

 「本当にフル生産できるのか」、「納品できなかった場合にはどうなるのか」

 1週間での復旧は不可能だと思っていた営業部門にとっては当然のことだった。議論が繰り返されたが、石井常務取締役の熱意を受けて、本格的な受注活動が再開された――。

後編に続く。

 明日掲載の後編では、部品不足や節電対策など震災の影響に同事業者がどう対応していったのかをご紹介します。引き続きご愛読お願いいたします。





2011年8月11日 00:00