藤山哲人の実践! 家電ラボ
実物に触れる! 理系やエンジニアが狂喜乱舞するシャープミュージアムを君は知ってるか!?
実物に触れる! 理系やエンジニアが狂喜乱舞するシャープミュージアムを君は知ってるか!?
2019年2月7日 00:00
メーカー系の博物館は結構ある。有名どころでは、大阪にあるパナソニックミュージアムと併設の松下幸之助博物館。そして川崎にある東芝博物館。東京と大阪にあるダイキンのフーハも博物館に入れていいだろう。
でも奈良の天理に隠れたメーカー系の博物館がある。駅から歩くには遠く、車で行こうにもビルは見えるが道が分からないという、隠れ家的(?)な博物館。それがシャープミュージアムだ。シャープファンなら必ず訪れたい聖地!
創業時代のシャープはベルトのバックル製造!
まず最初に見られるのが、明治から大正にかけて、創業者の早川 徳次がシャープの前身にあたる会社を興すところ。シャープのファンはコアな人が多いので、創業当時はベルトのバックルを作る金属加工会社だったことを知っている人も多いはず。
一般的なベルトは今でもそうだが、ベルトにあいている穴に金属の棒を入れて固定する方式が多い。しかし早川徳次は、ベルトに穴を開けずに、どんな長さでもベルトを止められるバックル「徳尾錠」を開発・新案特許を取得した。このバックルは工事用のベルトなどでおなじみのヤツかと思ったらそうではない。
バックルの正面がレバーになっていて、起こすとリリース、倒すと固定となっているのだ。ミュージアムに行くと本物が見られるので、シャープファンはぜひシャープのルーツを見て欲しい。
次に案内されるのは、みんなご存知「シャープペン」。シャープが開発したからシャープペンというのはよく知られているが、今のシャープペンとはちょっと違う。
その名も「早川式繰出鉛筆」。発売は1915年(大正4年)のこと。それまでも芯を繰り出す鉛筆なるものがあった。ネジで芯を押し出す構造で、スクリューペンシルなどと呼ばれていた。実は早川 徳次、この繰り出し鉛筆の部品を下請けとして製造していたが、芯も太く使いづらい上に、錆びて動かなくなるなどの故障が多かった。
そこで実用的なものをということで、繰り出し機構の部品を改良した。それが「早川式」たる由来だ。最初はひねるごとに細い芯が少しずつ出てくるものだったが、後にノック式となる。
これも爆発的なヒットとなり会社を大きくする。そしてラインはモーターの動力を入れて、量産化した。その様子がミュージアムに展示されていた。
ミュージアムには、さまざまなバリエーションのシャープペンも展示されていれ、ここだけでもかなり楽しめる。
写真で1個だけ下におかれているパッケージには、「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」(“Ever-Ready Sharp Pencil”:いつも芯が尖った鉛筆)と印刷されている。「ご婦人にも簡単に使える筆記用具」を目指すという徳次の思いが込められている。
大震災で工場と家族を失い大阪に移りラジオ開発に励む
元々東京で起業した「早川兄弟商会金属文具製作所」。しかし関東大震災に見舞われ、工場は潰れ焼け野原となる。また徳次は家族もみな失った。そこで拠点を大阪に移し再起を図る。これまでシャープペンシルを作ってた機械や技術は、日本文具製造という会社に売却し損失を補填した。そして1923年(大正12年)に大阪で、ついに電子機器の製造を始める。
手始めは、アメリカから輸入したラジオの模造品を作るところからはじめた。日本には関連資料も部品もない状態だったので、輸入した基板をひとつひとつ解析し、鉱石ラジオというものを作った。それが1925年(大正14年)。
後に主流となる真空管やトランジスタラジオと違い、チューニングが難しく、感度も悪く、ヘッドホンやイヤホンでしか聞けなかった鉱石ラジオ。しかし4カ月後に始まった大阪NHK局の開局により、これも大ヒットした。
館内には、なんと! 本物が展示されている! よく見るとまだシャープというブランドは使っておらず、おそらくラワン材を使った木製ケース。ネジはもちろんマイナスネジだ。
上の赤い端子にはアンテナを接続、下にある2セットの赤と黒の端子は、隣のレシーバの左右耳用のイヤホンの線をつなぐ端子だ。左下のグランド端子は、ラジオの入りが悪い場合などに、電線をつないで片方を土に埋めて聞いたと思われる。
鉱石ラジオはスピーカーで聞けるほど、ボリュームを大きくできなかったため、今度はみんなで聞けるラジオとして、4年後にシャープダインという真空管ラジオを開発・販売。それが1932年(昭和7年)のこと。
ここに初めてシャープのブランドが使われる。この製品で「ラジオはシャープ」という口コミが広がり、シャープダインは色々な派生モデルが生まれた。
さらにシャープの強みは、部品も自社生産だったという点。ラジオの製品も販売する一方で、必要な部品を国内だけでなく海外にも輸出していたというのだから驚きだ。
ミュージアムには、その後のラジオやオーディオ機器の歴史が展示され、近代になると「あ! これあった!」なんてものも多くあるはず。
国産初のテレビはシャープ製
ブラウン管方式のテレビを世界で初めて作ったのは1926年(昭和元年)の日本。しかし第二次世界大戦に向けて政情が不安定になったこともあり、テレビの技術はアメリカに遅れをとっていた。
そのため日本で始めて民生用のテレビが発売されたのは、終戦後1953年(昭和28年)のこと。その第1号機こそシャープが開発したもので、ミュージアムにも飾られている。
よく見るとその後のテレビの基本的なダイヤル配置になっていることに驚く。チャンネルの外側に周波数微調整ダイヤル。となりに明るさとコントラストダイヤル。左は水平と垂直同期調整。そして音量と走査線の焦点を決めるフォーカスダイヤル。なんかテレビというより、古いオシロスコープだ!
カラーテレビも本格的な普及が始まる前の1960年(昭和35年)から発売していたのも驚きだ。当時は1日に1時間だけカラー放送だったという。それじゃぁカラーテレビが売れるわけない! って感じで、価格は21型で50万円! 1960年の50万円っすよ!
シャープらしいというのが、次の両面テレビだ。どう見ても売れるわけがないのだが、技術的にできちゃうと売っちゃうのがシャープ(笑)。
そしてほとんどの番組がカラー放送になった1970年(昭和45年)についに社名を「シャープ株式会社」に変更する。意外に最近というのに驚いた。
シャープというのは本当に面白い会社。「謎」や「迷」製品も多数あるが、歴史を塗り替えた製品も多数あって、ミュージアムは飽きさせない。っつーか、普通なら黒歴史として封印するところも全部見せてくれるのがうれしい。
ヘルシオにつながるキッチン家電の系譜
国内初の電子レンジ開発は東芝にゆずるが、3年後の1962年(昭和37年)に、シャープが初めて量産化に成功している。
さらにその後、熱を均等に入れられるようにターンテーブル(ガラス製のテーブルが回るタイプ)付きにしたのは、国内でシャープが初めてだ。1966年(昭和41年)のこと。
また出来上がり「チン!」という音もシャープが始めたもので、今でもレンジで加熱することを「チンする」と言う人もいるだろう。レンジの開発チームの近所の自転車屋さんから買ってきたベルを使い、バネと電磁石でチン! を出していたという。
それ以前にも電機ヒーター式の魚焼きグリル(1959年(昭和34年)やフードミキサー兼用の自動精米機なども1961年(昭和36年)販売していた。
また冷蔵庫も1958年(昭和33年)に発売。ミュージアムでは、実際にドアを開閉して確かめることまでできる。その隣には1989年(昭和64年)に発売された左右どちらにでも開く両開きドアを採用した冷蔵庫も並ぶ。シャープは今でも両開きドアを製造している。
フルトランジスタからそろばん一体型まで電卓の歴史
昭和を生きてきた方にとっては「シャープといえば電卓」。カシオとの電卓戦争だ。ミュージアムにも数々の電卓が展示されており、中には実際に触れるものまである。
あまりにもたくさんあるので、ここは写真を中心にしておきたい。
ココから先は、クレジットカードサイズまで小さくなったが、ボタンが押しにくくなったり、ポケット入れてたら折れちゃったなど紆余曲折。さらに価格は年々安くなる一方で、シャープとカシオの体力勝負となり、電卓戦争は自然に終結した。
その番外編的なものが「ゲームウォッチ」だ。任天堂の製品ではあるが、実はシャープがOEM生産していた。京都にある任天堂が、液晶を使った簡単なゲーム機を作れないかを大阪のシャープに打診したところ、電卓戦争の収束で余剰が出ていた液晶工場の生産能力をゲームウォッチに回せるとあって、二度返事でOKしたという。
任天堂とシャープの友好な関係は、シャープが規格・製造していたクイックディスクという記憶媒体がファミコンに利用され、その後ディスクシステムとなる。そしてシャープからは、ディスクシステムを内蔵したツインファミコンが発売されるのだ。なつかしー!
【お詫びと訂正】
記事初出時、「お店に行ってディスクのゲームが安価で書き換えられる(ディスクベンダーTAKERU)と人気を博した」とありましたが、正しくは「お店に行ってディスクのゲームが安価で書き換えられるディスクライターは人気を博した」です。お詫びして訂正いたします。
日本独自の電子手帳文化が花咲き世界中にPDAブームが!
1987年(昭和62)にビジネスマンに大ヒットしたのが電子システム手帳。カレンダー、メモ、電話帳、スケジューラなどビジネスに必須な機能が手帳サイズにまとまっていた。それまでカタカナしか表示できなかった中、漢字が表示できるのが衝撃的だった。
またICカードを差し込むと辞書になったり、化学計算ができるようになったりと、エンジニアや理系の学生にも人気を呼んだ。
平成になると電子手帳はさらに進化し、1993年(平成5年)には液晶ペンコムが発売。液晶は大きくなり、画面にタッチして操作できるだけでなく、手書き文字を認識するという新しい電子手帳に進化した。一台PDAブームの火付け役となる。愛称は「ザウルス/Wiz」。
熱狂的なユーザーが多かったシャープ製のパソコン
パソコンの発展にも貢献したのがシャープ。今でこそインテルのCPUが市場を席巻しているが、1978年(昭和53年)に発売されたMZ-80Kは当時インテルと競い合っていたザイログ社のZ80(8ビット)を搭載したコンピュータ。またZ80は、ザイログ社からライセンスを受けシャープが国内供給向けに生産をしていた。当時大ブレイクした「スペースインベーダー」ゲームもZ80を使っていた。
完成品ではなく、キーボードを半田付けして仕上げるというキットになっていたのが特徴。
その後MZシリーズは、シャープのコンピュータ部門の作るビジネス向けPCとして脈々とシリーズ展開される。
一方でホビイスト向けに登場したのは、テレビ事業部が製作したX1。今でこそテレビにコンピュータの映像を映せるのは当たり前だが、当時はテレビはテレビ、パソコンのディスプレイではテレビは見られないものだったが、これを可能にしたのがX1。NECが一般ユーザーに広まる中、熱狂的なコアユーザーを多く持っていた。
シャープのパソコンユーザーは、あまりに独自の仕様のためソフトが少なかった。だから「ソフトがなければ、作ればいいじゃないか!」というのがスローガン。非常にプログラマ率が高く、熱狂的なファンを持っていた。
そのX1が16ビットに進化したのが、X68000というさらにホビイスト好みのコンピュータだった。こちらもファンというより、多くの信者を集めたパソコン。ボクはシャープ製CコンパイラのマニュアルをOEMで書いてましたよ(笑)。
懐かしいもの、貴重なもの、凄いもの、本物が見られる!
シャープはいち早くLEDや太陽電池パネルなどの開発した会社としても有名。また亀山ブランドでおなじみの液晶、さらには画期的なIGZOなどでも有名だ。
普通はガラスケースの向こう側にあって、決して触れないものの数々を直に見て、中には触れるものまである博物館は、そうそうあるもんじゃない。
ミュージアム内には、紹介した以外にもさまざまな展示物があり、懐かしく見入るものから、技術的な解説までさまざまな楽しみ方ができる。とくにシャープという会社には「熱狂的なファン」がおり、これらの人々にとっては2~3時間楽しめる施設だ。そうでない一般の人でも、1時間以上は楽しめるだろう。
アクセス
シャープミュージアムの最寄駅はJR桜井線の櫟本駅だが、そこから先の交通手段が厳しい(タクシーもいない)ので、少し離れた近鉄もしくはJRの天理駅からタクシーで15分。バスなら1時間に1本出ている「シャープ総合開発センター」行きのバスに乗るといい。
車の場合は国道169号を奈良方面から南下して、西名阪自動車道の側道に入り、山の上にあるシャープの看板を目指せばいい。でも「ホントにこの道か?」と疑いたくなる道なので、うろうろすること確実だ。
なにせ天理事業所の周りは古墳だらけで、道が古墳を迂回するためどこを走ってるのか分からなくなる上、「事業所は見えるが道はなし」なので公共交通機関の方が無難だ。ちなみに筆者は、車で周辺を30分ウロウロしたほど。
実は天理事業所は「シャープ総合開発センター」が入っていて、そこに併設された形でシャープミュージアムがある。だから一般の博物館と違い、休日や祝日などは閉館しているので注意して欲しい。つまりシャープの営業日と同じということ。
入場料は以下のとおり。
一般 | 1,000円/人(20名以上は800円/人) |
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シニア(65歳以上) | 800円/人 |
小・中学生 | 300円/人 |
未就学 | 無料 |
入場するとアテンダントのお姉さんがひとつひとつの展示物を解説してくれて、およそ1時間ほどの見学コースになる。
また臨時休業や団体さんとのブッキングなどもあるため、あらかじめ見学の予約を入れておくこと。予約などの詳細は、ホームページを参照して欲しい。