藤山哲人の実践! 家電ラボ

実物に触れる! 理系やエンジニアが狂喜乱舞するシャープミュージアムを君は知ってるか!?

実物に触れる! 理系やエンジニアが狂喜乱舞するシャープミュージアムを君は知ってるか!?

 メーカー系の博物館は結構ある。有名どころでは、大阪にあるパナソニックミュージアムと併設の松下幸之助博物館。そして川崎にある東芝博物館。東京と大阪にあるダイキンのフーハも博物館に入れていいだろう。

 でも奈良の天理に隠れたメーカー系の博物館がある。駅から歩くには遠く、車で行こうにもビルは見えるが道が分からないという、隠れ家的(?)な博物館。それがシャープミュージアムだ。シャープファンなら必ず訪れたい聖地!

シャープ天理事業所に併設されているシャープミュージアム

創業時代のシャープはベルトのバックル製造!

 まず最初に見られるのが、明治から大正にかけて、創業者の早川 徳次がシャープの前身にあたる会社を興すところ。シャープのファンはコアな人が多いので、創業当時はベルトのバックルを作る金属加工会社だったことを知っている人も多いはず。

 一般的なベルトは今でもそうだが、ベルトにあいている穴に金属の棒を入れて固定する方式が多い。しかし早川徳次は、ベルトに穴を開けずに、どんな長さでもベルトを止められるバックル「徳尾錠」を開発・新案特許を取得した。このバックルは工事用のベルトなどでおなじみのヤツかと思ったらそうではない。

「徳尾錠」という名のバックル。バックル正面がレバーになっていて、起こすと解除、倒すと固定になる。1912年(大正元年)の製品だ

 バックルの正面がレバーになっていて、起こすとリリース、倒すと固定となっているのだ。ミュージアムに行くと本物が見られるので、シャープファンはぜひシャープのルーツを見て欲しい。
 次に案内されるのは、みんなご存知「シャープペン」。シャープが開発したからシャープペンというのはよく知られているが、今のシャープペンとはちょっと違う。

「シャープペンシル」と命名したのは翌年。アメリカに輸出するため「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」となり、さらに略され「シャープペン」となった

 その名も「早川式繰出鉛筆」。発売は1915年(大正4年)のこと。それまでも芯を繰り出す鉛筆なるものがあった。ネジで芯を押し出す構造で、スクリューペンシルなどと呼ばれていた。実は早川 徳次、この繰り出し鉛筆の部品を下請けとして製造していたが、芯も太く使いづらい上に、錆びて動かなくなるなどの故障が多かった。

 そこで実用的なものをということで、繰り出し機構の部品を改良した。それが「早川式」たる由来だ。最初はひねるごとに細い芯が少しずつ出てくるものだったが、後にノック式となる。

バリエーションの数々。10年前にプラチナ万年筆から復刻版も発売されて話題を呼んだ。中にはライターやコンパスつきのペンも!

 これも爆発的なヒットとなり会社を大きくする。そしてラインはモーターの動力を入れて、量産化した。その様子がミュージアムに展示されていた。

小さな子どもたちが働いているが、彼らはでっち奉公。徳次もでっち奉公に出ていたので、勤勉な子どもたちを多く採用したという

 ミュージアムには、さまざまなバリエーションのシャープペンも展示されていれ、ここだけでもかなり楽しめる。

 写真で1個だけ下におかれているパッケージには、「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」(“Ever-Ready Sharp Pencil”:いつも芯が尖った鉛筆)と印刷されている。「ご婦人にも簡単に使える筆記用具」を目指すという徳次の思いが込められている。

当時の芯は1mm程度で、長さも今の1/3程度。赤と黒のセットだったという

大震災で工場と家族を失い大阪に移りラジオ開発に励む

 元々東京で起業した「早川兄弟商会金属文具製作所」。しかし関東大震災に見舞われ、工場は潰れ焼け野原となる。また徳次は家族もみな失った。そこで拠点を大阪に移し再起を図る。これまでシャープペンシルを作ってた機械や技術は、日本文具製造という会社に売却し損失を補填した。そして1923年(大正12年)に大阪で、ついに電子機器の製造を始める。

大阪に移り社名も新たに「早川金属工業研究所」とする。ここではアメリカで実用化されたラジオの研究に励んだ

 手始めは、アメリカから輸入したラジオの模造品を作るところからはじめた。日本には関連資料も部品もない状態だったので、輸入した基板をひとつひとつ解析し、鉱石ラジオというものを作った。それが1925年(大正14年)。

 後に主流となる真空管やトランジスタラジオと違い、チューニングが難しく、感度も悪く、ヘッドホンやイヤホンでしか聞けなかった鉱石ラジオ。しかし4カ月後に始まった大阪NHK局の開局により、これも大ヒットした。

 館内には、なんと! 本物が展示されている! よく見るとまだシャープというブランドは使っておらず、おそらくラワン材を使った木製ケース。ネジはもちろんマイナスネジだ。

 上の赤い端子にはアンテナを接続、下にある2セットの赤と黒の端子は、隣のレシーバの左右耳用のイヤホンの線をつなぐ端子だ。左下のグランド端子は、ラジオの入りが悪い場合などに、電線をつないで片方を土に埋めて聞いたと思われる。

こんな貴重なものが、ガラスケースに入れられることなく飾られている! 凄いシャープ!

 鉱石ラジオはスピーカーで聞けるほど、ボリュームを大きくできなかったため、今度はみんなで聞けるラジオとして、4年後にシャープダインという真空管ラジオを開発・販売。それが1932年(昭和7年)のこと。

真空管ラジオ。みんなで聞けるようにスピーカーとアンプを取り付け、電波の弱い地域でも真空管を使って信号を増幅てき、明瞭なラジオが聞けるようになった

 ここに初めてシャープのブランドが使われる。この製品で「ラジオはシャープ」という口コミが広がり、シャープダインは色々な派生モデルが生まれた。

現代と同じマグネットとコーン紙を使ったスピーカ搭載の真空管式シャープダイン。大きなスピーカーが鳴らせるようにと、たくさんの真空管を搭載した
チューニング部分には今と変わらない「SHARP」のロゴ
真空管を5球使っている。たぶん放熱させるために、金属製のケースに入れていると思われる。ケース自体がヒートシンクというわけ

 さらにシャープの強みは、部品も自社生産だったという点。ラジオの製品も販売する一方で、必要な部品を国内だけでなく海外にも輸出していたというのだから驚きだ。

昔ラジオ工作少年だった人たちがみると、感激するに違いないバリコン。今じゃシンセサイザチューナーになって、ポリバリコンも見ませんね
抵抗やコンデンサ、トランスまで自社製品。ここまで自社生産してる会社は他にある?
なんか現代の秋月電子を思わせるシャープのラジオ部品瓦版。分かる人は笑えるってことで……

 ミュージアムには、その後のラジオやオーディオ機器の歴史が展示され、近代になると「あ! これあった!」なんてものも多くあるはず。

レコードプレーヤーや奥に見えるラジオ。NHKの連続テレビ小説とかで出てきそう
右は戦時中のラジオ。金属が貴重だったのでベーク板(難燃性で絶縁体なので電車の内壁などでもいまだに利用されている)。左はコンパクトなレコードプレイヤー
なんと! お姉さんから、実際に触って空けてもらってもいいですよ! と。まじかっ! ターンテーブルのフロンとローディングだよ! 感動!
5球スーバーラジオ。当時の最高級モデル、今ならBCLモデル(誰も分からんか?)。バリコンのチューニングもできるし、ボタン1発でチューニングできる機能も! すげー!! コンデンサの容量決め打ちなんだろうなー
エアコンじゃなくて、床置きも壁かけもできるラジオ(真空管方式)。これも大ヒットした製品という。シャープとHAYAKAWA ELECTORIC CO. LTDが特徴的。1956年(昭和31年)製
1958年(昭和33年)になると、トランジスタになって一気に手のひらサイズに。今じゃ1,000円で変えるけど、当時でも10,900円もした! 当時の大卒初任給が13,500円。小型ラジオが今の20万ぐらいかよ!
1975年(昭和50年)年代以降になると、見慣れたラジカセに(ただし40歳以上のオッサン限定)
世界初のダブルカセット! テープの無音部分を検出した頭だしも可能に! チューナーの下にAPSSボタンがあって11曲まで送れるみたい。今見てもスライドボリュームが未来的でカッコイイですねー

国産初のテレビはシャープ製

 ブラウン管方式のテレビを世界で初めて作ったのは1926年(昭和元年)の日本。しかし第二次世界大戦に向けて政情が不安定になったこともあり、テレビの技術はアメリカに遅れをとっていた。

 そのため日本で始めて民生用のテレビが発売されたのは、終戦後1953年(昭和28年)のこと。その第1号機こそシャープが開発したもので、ミュージアムにも飾られている。

 よく見るとその後のテレビの基本的なダイヤル配置になっていることに驚く。チャンネルの外側に周波数微調整ダイヤル。となりに明るさとコントラストダイヤル。左は水平と垂直同期調整。そして音量と走査線の焦点を決めるフォーカスダイヤル。なんかテレビというより、古いオシロスコープだ!

1953年に発売された第1号の白黒テレビ。ブラウン管のカドが丸くて飛行機の窓みたい! おそらく高電圧なので木製の筐体で絶縁していたのだろうが、このデザインから以降のテレビが木目調になっていると思われる
国産1号機のテレビから、操作ダイヤルは以降の標準モデルになっている!
宣伝用に町に置かれた街角テレビ。今から考えると小さすぎ!
テレビもトランジスタ化されると一挙に小型化。1960年(昭和35年)製
60年代のアメ車のようなカラーリングとデザインがスゲー!

 カラーテレビも本格的な普及が始まる前の1960年(昭和35年)から発売していたのも驚きだ。当時は1日に1時間だけカラー放送だったという。それじゃぁカラーテレビが売れるわけない! って感じで、価格は21型で50万円! 1960年の50万円っすよ!

第1号カラーテレビ(1960年製)。カラー放送を従来の白黒テレビでも視聴できるように、テレビの信号は地デジになるまで、輝度信号(白黒用:通称Y信号)と、カラー信号(通称:C信号)に分けた規格も凄い! 昔「YC分離」って言ってたのは、この信号を分離すること

 シャープらしいというのが、次の両面テレビだ。どう見ても売れるわけがないのだが、技術的にできちゃうと売っちゃうのがシャープ(笑)。

「両面テレビ」1967年(昭和42年)製。誰がどこで使うのか? を考えれば、売れないのは分かるだろうに……

 そしてほとんどの番組がカラー放送になった1970年(昭和45年)についに社名を「シャープ株式会社」に変更する。意外に最近というのに驚いた。

 シャープというのは本当に面白い会社。「謎」や「迷」製品も多数あるが、歴史を塗り替えた製品も多数あって、ミュージアムは飽きさせない。っつーか、普通なら黒歴史として封印するところも全部見せてくれるのがうれしい。

これまた「謎」製品の「ラテカコンピュータシステム」1979年(昭和54年)製。ラジオとテレビとカセットに加え、BASIC言語が使えるコンピュータ。カッコイ! カッコイイ! けど誰も買わないでしょ……
かと思うと、同年にリリースされた世界初のフロントローディング方式のビデオ。これまでのビデオの挿入口が、ガチャン! と上に飛び出すという常識を覆し、コレ以降ほとんどのビデオがフロントローディングに

ヘルシオにつながるキッチン家電の系譜

 国内初の電子レンジ開発は東芝にゆずるが、3年後の1962年(昭和37年)に、シャープが初めて量産化に成功している。

最初に発売された電子レンジは、飲食店向けの業務用だったという。それもあって価格が54万円。1962年(昭和37年)製

 さらにその後、熱を均等に入れられるようにターンテーブル(ガラス製のテーブルが回るタイプ)付きにしたのは、国内でシャープが初めてだ。1966年(昭和41年)のこと。

 また出来上がり「チン!」という音もシャープが始めたもので、今でもレンジで加熱することを「チンする」と言う人もいるだろう。レンジの開発チームの近所の自転車屋さんから買ってきたベルを使い、バネと電磁石でチン! を出していたという。

4年後の1966年(昭和41年)には家庭用の電子レンジができ、価格も半分以下になったが、まだまだ普及までは難しそう

 それ以前にも電機ヒーター式の魚焼きグリル(1959年(昭和34年)やフードミキサー兼用の自動精米機なども1961年(昭和36年)販売していた。

奥が精米機&フードミキサー、手前が魚焼きグリル

 また冷蔵庫も1958年(昭和33年)に発売。ミュージアムでは、実際にドアを開閉して確かめることまでできる。その隣には1989年(昭和64年)に発売された左右どちらにでも開く両開きドアを採用した冷蔵庫も並ぶ。シャープは今でも両開きドアを製造している。

1958年(昭和33年)の冷蔵庫。それまで氷を入れる冷蔵庫だったが、1日10円で氷を入れなくても食品が冷やせる経済的な冷蔵庫だった。容量は93L
実際にドアを開けて中を見て見てください! とお姉さん。こんなの触れちゃうのがシャープミュージアム
もう30年以上経った今でも、両開きの便利さ(お客さんに中を見られたくない場合は、反対から開けるなどできる)に慣れると、いまだにシャープの冷蔵庫しか使えなくなるという
新しいように思える加熱水蒸気オーブンのヘルシオも、2004年(平成16年)発売と、もう15年以上も経つ。マジ!?

フルトランジスタからそろばん一体型まで電卓の歴史

 昭和を生きてきた方にとっては「シャープといえば電卓」。カシオとの電卓戦争だ。ミュージアムにも数々の電卓が展示されており、中には実際に触れるものまである。

 あまりにもたくさんあるので、ここは写真を中心にしておきたい。

世界初のフルトランジスタ電卓。設計当初はテンキーにする予定だったが、卓上に乗らなくなるので機械式のボタンになったという1964年(昭和39年)製
1桁分のニキシー管ドライバ。右上についている真空管みたいなのが、オレンジの光で1桁の表示をするニキシー管と呼ばれる部品。希少価値の部品で、今ニキシー管の時計がブレイクしている
時代を追うごとにどんどん小さくなる。右から1968年(昭和43年)製のMOS IS(小型省電力)を使った電卓、1969年(昭和44年)には集積度が高くなったMOS LSIでさらに小さく。左は表示部分を液晶にしたので手のひらサイズになった製品1973年(昭和48年)
太陽電池パネル搭載の電卓。ELSI MATE(エルシーメイト)ブランドを使い始める。またパネルの発電量が小さかったので、ひっくり返して充電しないとダメだった。1976年(昭和51年)製
太陽電池採用の一方で、薄くなっていく電卓。ボタンがなくタッチ式になって厚さ5mmに! 俺、これもってたわ! 1977年(昭和52年)製
謎製品のソロカル。見ての通りだが、当時そろばん派の人と、電卓派に分かれていたので、なんで一緒にするかな~? というシャープ製品(笑)
1980年(昭和55年)になると、押したキーや計算結果を読み上げてくれる「音声合成電卓」が登場。これも触れて、実際にしゃべるところが聞けちゃう!
遂に電池不要で太陽電池だけで動く電卓の登場! 1981年(昭和56年)のこと。厚さ1.6mm、重さ38gとコンパクトなのはいいが、今度は強度の問題が出てきた

 ココから先は、クレジットカードサイズまで小さくなったが、ボタンが押しにくくなったり、ポケット入れてたら折れちゃったなど紆余曲折。さらに価格は年々安くなる一方で、シャープとカシオの体力勝負となり、電卓戦争は自然に終結した。

 その番外編的なものが「ゲームウォッチ」だ。任天堂の製品ではあるが、実はシャープがOEM生産していた。京都にある任天堂が、液晶を使った簡単なゲーム機を作れないかを大阪のシャープに打診したところ、電卓戦争の収束で余剰が出ていた液晶工場の生産能力をゲームウォッチに回せるとあって、二度返事でOKしたという。

 任天堂とシャープの友好な関係は、シャープが規格・製造していたクイックディスクという記憶媒体がファミコンに利用され、その後ディスクシステムとなる。そしてシャープからは、ディスクシステムを内蔵したツインファミコンが発売されるのだ。なつかしー!

1980年(昭和55年)に大ブレイクした、任天堂のゲームウォッチをシャープがOEMしていたというのは有名な話。ミュージアムでも言っちゃてるし(笑)
1986年(昭和61年)に発売されたツインファミコンは、ディスクシステムが内蔵されたモデルだった。お店に行ってディスクのゲームが安価で書き換えられるディスクライターは人気を博した

【お詫びと訂正】
記事初出時、「お店に行ってディスクのゲームが安価で書き換えられる(ディスクベンダーTAKERU)と人気を博した」とありましたが、正しくは「お店に行ってディスクのゲームが安価で書き換えられるディスクライターは人気を博した」です。お詫びして訂正いたします。

日本独自の電子手帳文化が花咲き世界中にPDAブームが!

 1987年(昭和62)にビジネスマンに大ヒットしたのが電子システム手帳。カレンダー、メモ、電話帳、スケジューラなどビジネスに必須な機能が手帳サイズにまとまっていた。それまでカタカナしか表示できなかった中、漢字が表示できるのが衝撃的だった。

電子手帳の初代モデル。コレを持っているだけで仕事ができるビジネスマンに見えると大人気。電車の中で内ポケットからサッ! と出す。それが当時のステイタス

 またICカードを差し込むと辞書になったり、化学計算ができるようになったりと、エンジニアや理系の学生にも人気を呼んだ。

 平成になると電子手帳はさらに進化し、1993年(平成5年)には液晶ペンコムが発売。液晶は大きくなり、画面にタッチして操作できるだけでなく、手書き文字を認識するという新しい電子手帳に進化した。一台PDAブームの火付け役となる。愛称は「ザウルス/Wiz」。

実際に使っていた人も多いのでは? 世の中PDAブームで海外のParm社も参入してきた

熱狂的なユーザーが多かったシャープ製のパソコン

 パソコンの発展にも貢献したのがシャープ。今でこそインテルのCPUが市場を席巻しているが、1978年(昭和53年)に発売されたMZ-80Kは当時インテルと競い合っていたザイログ社のZ80(8ビット)を搭載したコンピュータ。またZ80は、ザイログ社からライセンスを受けシャープが国内供給向けに生産をしていた。当時大ブレイクした「スペースインベーダー」ゲームもZ80を使っていた。

 完成品ではなく、キーボードを半田付けして仕上げるというキットになっていたのが特徴。

近所のお店に雑誌を持って行きゲームを打ち込んでいた人もいるのでは?

 その後MZシリーズは、シャープのコンピュータ部門の作るビジネス向けPCとして脈々とシリーズ展開される。

MZ-2000かMZ-80Bが欲しかったっすねー。ボクはX1派でしたが……

 一方でホビイスト向けに登場したのは、テレビ事業部が製作したX1。今でこそテレビにコンピュータの映像を映せるのは当たり前だが、当時はテレビはテレビ、パソコンのディスプレイではテレビは見られないものだったが、これを可能にしたのがX1。NECが一般ユーザーに広まる中、熱狂的なコアユーザーを多く持っていた。

 シャープのパソコンユーザーは、あまりに独自の仕様のためソフトが少なかった。だから「ソフトがなければ、作ればいいじゃないか!」というのがスローガン。非常にプログラマ率が高く、熱狂的なファンを持っていた。

 そのX1が16ビットに進化したのが、X68000というさらにホビイスト好みのコンピュータだった。こちらもファンというより、多くの信者を集めたパソコン。ボクはシャープ製CコンパイラのマニュアルをOEMで書いてましたよ(笑)。

パソコンテレビX1は1982年(昭和57年)。持ってました! プログラム書きまくってました!

懐かしいもの、貴重なもの、凄いもの、本物が見られる!

 シャープはいち早くLEDや太陽電池パネルなどの開発した会社としても有名。また亀山ブランドでおなじみの液晶、さらには画期的なIGZOなどでも有名だ。

コックピットの液晶パネルも生産している!
背景と透過・不透過にできる液晶パネル!

 普通はガラスケースの向こう側にあって、決して触れないものの数々を直に見て、中には触れるものまである博物館は、そうそうあるもんじゃない。

 ミュージアム内には、紹介した以外にもさまざまな展示物があり、懐かしく見入るものから、技術的な解説までさまざまな楽しみ方ができる。とくにシャープという会社には「熱狂的なファン」がおり、これらの人々にとっては2~3時間楽しめる施設だ。そうでない一般の人でも、1時間以上は楽しめるだろう。

「謎」製品。電池じゃなくてぜんまい式の髭剃り!
アクセス

 シャープミュージアムの最寄駅はJR桜井線の櫟本駅だが、そこから先の交通手段が厳しい(タクシーもいない)ので、少し離れた近鉄もしくはJRの天理駅からタクシーで15分。バスなら1時間に1本出ている「シャープ総合開発センター」行きのバスに乗るといい。

▼天理駅→シャープ総合開発センター行きバス時刻表

 車の場合は国道169号を奈良方面から南下して、西名阪自動車道の側道に入り、山の上にあるシャープの看板を目指せばいい。でも「ホントにこの道か?」と疑いたくなる道なので、うろうろすること確実だ。

 なにせ天理事業所の周りは古墳だらけで、道が古墳を迂回するためどこを走ってるのか分からなくなる上、「事業所は見えるが道はなし」なので公共交通機関の方が無難だ。ちなみに筆者は、車で周辺を30分ウロウロしたほど。

南北からのアクセスは、必ず国道169号で行くこと。併走する道で行くと絶対迷う!

 実は天理事業所は「シャープ総合開発センター」が入っていて、そこに併設された形でシャープミュージアムがある。だから一般の博物館と違い、休日や祝日などは閉館しているので注意して欲しい。つまりシャープの営業日と同じということ。

 入場料は以下のとおり。

一般1,000円/人(20名以上は800円/人)
シニア(65歳以上)800円/人
小・中学生300円/人
未就学無料

 入場するとアテンダントのお姉さんがひとつひとつの展示物を解説してくれて、およそ1時間ほどの見学コースになる。

 また臨時休業や団体さんとのブッキングなどもあるため、あらかじめ見学の予約を入れておくこと。予約などの詳細は、ホームページを参照して欲しい。

藤山 哲人