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ノーベル賞受賞者の天野氏が語る「LEDの可能性と照明の未来」

 「Jump to the next(次のあかりの世界へジャンプ)」をメインテーマに、東京ビッグサイトで開催された「ライティング・フェア 2015(第12回国際照明総合展)」では、最先端技術を駆使した商品の情報を提供すると共に、セミナー・シンポジウムも催された。

 今回オープニングを飾ったのは、2014年に青色LEDの開発でノーベル物理学賞を受賞した、名古屋大学大学院工学研究科 教授 天野浩氏による「LEDの可能性と照明の未来」の記念講演だった。

ライティング・フェア 2015のオープニングセレモニーで祝辞を述べる天野浩氏
照明界の錚々たる著名人と並ぶ天野氏。右から、一般社団法人日本照明工業会会長の松蔭邦彰氏、天野氏、日本経済新聞社 文化事業局長の小松潔氏

 記念講演の会場は、東京ビッグサイト会議棟の最も広い国際会議場。定員1,000名のところ、倍以上の申し込みがあるほど、高い関心が寄せられた。

 講演は、ノーベル賞受賞を知るところから、授賞式のスウェーデンでの1週間の様子に始まり、青色LEDの実用化までの開発ストーリー、さらに、LED化による未来への影響の講演会と豊田合成顧問の太田光一氏との対談まで、たっぷり1時間半にも及ぶものだった。

ノーベルウィーク中に訪れた町の説明
ノーベル賞の行事と、天野氏の印象

エネルギー効率の良い、究極の光源LED

 天野氏は、冒頭、LEDの特徴を「エネルギー効率が素晴らしく良い」と話した。

 19世紀までの明かりは、炎のたいまつやロウソクなど、化学反応、酸化反応を利用したものが主流。1878年に白熱電球が登場し、1926年には蛍光灯が生まれた。白熱灯の光の元となるのはほとんどが赤外線、蛍光灯は水銀の原子の紫外線を可視光に変換する必要性があり、どちらもエネルギーを損失する。

 それに対して、LEDは電気を流すと発光する半導体を用いるのでエネルギー損失が圧倒的に少ない。

 「1962年に赤色LEDが登場して以来、9年後の1971年には、白色光源に必要な窒化ガリウム(GaN 別名:ガリウムナイトライド)を用いた青色LEDのプロトタイプが他の研究者によって報告されるなど、LEDは驚異的なスピードで発展を遂げてきた」

コンピューターの世界を一変したい! 赤崎教授と青色LEDとの出会い

講演会で、資料を指し示す天野氏

 一方、天野氏とLEDの出会いは、大学時代だったという。

 天野氏が修士課程に進む1980年代初頭は、赤(R)と緑(G)の明るいLEDは実用化されていた。天野氏とともに受賞した赤崎勇氏は、1981年には名古屋大学で教鞭を取り始めていた。

 その頃といえば、マイクロソフトやアップルなどの登場で、コンピューターのパーソナル化が急速に社会に浸透し始めた時代でもあった。だが、当時のディスプレイはブラウン管を使用したもので、持ち運びは無理なほど大きく、消費電力も高かった。

 「もし、青色LEDができれば、三原色のフルカラーLEDディスプレイがつくれます。そうすれば、コンピューターも世界も一変できるに違いないと思いました」と、赤崎氏の研究室の扉を叩いた理由を述べた。

 熱い気持ちで赤崎氏の研究に加わった天野氏だったが、「自分が青色LEDを作れたら、有名になれるかもしれない」という本音も交えつつ、「サファイアを使った基板の開発がこれほどまでに難しいとは、当時は思いもよりませんでした」と苦笑し、会場の大きな笑いを誘った。

研究費はたった300万円。ビール瓶も使った!?

 サファイア基板の上に、高品質な窒化ガリウム(GaN)の結晶を作るには、市販品で5千万円〜1億円もするMOVPE(有機金属化合物気相成長 MOVPE: Metal-Organic Vapor Phase Epitaxy)装置が必要だ。だが、当時の研究費用はたった300万円だったそうだ。

 「いくら親切なメーカーでも、300万で提供してくれる所はありません。ですから、装置は自分で作り始めました。すぐに実験には着手できませんでしたが、今思えばそれが後の研究に大いに役に立ちました」

 天野氏は前向きに、かつ謙遜しながら当時を振り返る。これはつまり、天野氏のノーベル物理学賞を受賞する研究の第一歩は、装置さえ整っていない環境からスタートしていたことを示している。よくぞ心が折れなかったものだと、感心せずにはいられなかった。

 「一部報道ではビール瓶を使ったと言われていますが、作成したい高周波コイルとビール瓶の直径がたまたまぴったりだったのです。装置の中にビール瓶を組み込んだわけではありません!」という、ウラ話も披露された。

失敗は1,500回以上。立ちはだかる2つの壁

 装置が完成したからといって、簡単に高品質な窒化ガリウムの結晶は作れない。天野氏はその大きな理由を2つ挙げた。

 1つは、窒化ガリウムと、基板のサファイアの、大きく異なる原子の配列が結晶化を困難にさせるそうだ。窒化ガリウムの結晶を作るには、窒素(N)の原料となるアンモニア(NH3)を、高い圧力と温度で噴射させ、化学反応を起こす必要があるのだが、アンモニアに耐えられるサファイア以外は、基板の材料として難しいというのだ。

 もう1つの難しい原因として、変えられない人間の目の視感度(目の明るさに対する感度)の特性を挙げた。「青色の明るさ」が赤や緑と同じだと、人間の目は青色を3%しか感じないそうだ。つまり、赤や緑よりも3/100倍「強い光の青色」でないと、人間の目に「白」として映らないのだ。

 温度、ガスの流れと量を吟味するのはもちろん、装置の改良を繰り返しても、その壁は打ち破れない。なんと、大学4年の終わりから、修士の2年の終わりに近くなる頃まで、1,500回実験を繰り返しても、できた結晶はいつも磨りガラスのような白いものばかりだったそうだ。他の学生達は次々と進路も決まり、窒化ガリウムの研究から離れていったという。

 「他の学生が就職を決め卒業旅行へ出かける中、たった1人研究室に残って、なかなか結果の出ない実験を続けました」

 天野氏は、孤独な研究の様子を笑い話に変えているが、この時点ですでに2年も具体的な研究の成果が得られないまま、日々を送っていたことになる。想像を絶する難しさが、笑いの中にもひしひしと伝わってくる。

 結局、修士課程修了まで、納得のいく結晶はできなかった。それでも赤崎教授の「あなたは博士課程に残りなさい」との勧めに従い、青色LEDの実現に向け、天野氏は博士課程へと研究の道を進めることとなる。

ついに成功! 世界初の窒化ガリウム結晶化

 博士課程に進んだ天野氏は、窒化ガリウムの結晶化のヒントを得る。それは、先輩ドクターが実現させた、きれいに結晶化した窒化アルミニウム(AIN)だった。

 「窒化アルミニウムをサファイアの上に少しだけ敷いたら、その上で窒化ガリウムがきれいに結晶化するのではないか?」という、仮説を立てて実験を始めたものの、ここで新たな壁にぶち当たる。実験装置があまりにも古すぎて、十分に温度が上がらないのだ。

 それでも天野氏は諦めない。過去に学んだ事をもう一度ひも解き、「リンの原料を少しだけ先に流すと、それが核となってきれいな結晶が育つ場合がある」という言葉を思い出し、さらにその方法も取り入れた。そして、ついにその日がやってきた。1985年2月、窒化ガリウムの結晶化の成功を迎える事となる。

 「最初は何もついてないように見え、また失敗したと思いました。ところが顕微鏡で見てみると、窒化ガリウムの特徴である六角形の形が見えたのです!」

 窒化ガリウムの単結晶の成功は、なんとそれが世界初。何もついていないように見えるほどキレイに揃った結晶を確認できた時、その興奮はいかほどのものだったろうか。

 結晶化した窒化ガリウムは、結晶の品質、電気的な特性、光学的な特性を各方面の協力から評価を得て、1986年に発表された。

 なお、窒化アルミニウムを緩衝層として使った「低温バッファ層」は、今では広く使われる事となる。

青色LED実現の前に満期退学

 窒化ガリウムの結晶化に成功したからといって、それで青色LEDのゴールに辿り着いたわけではない。天野氏の研究はさらに一歩、前へ踏み出す。

 そのままでは光に変換できる効率が低く、実用的な明るさは得られない。高輝度な半導体にするには、プラスの電荷をもった「p型」の半導体の実現へと進めなければならなかった。

 当時、結晶の物性を変化させるために添加していた不純物は亜鉛(Zn)だった。亜鉛を低温にすると結晶の歪みに沿って、線幅の狭いきれいなスペクトルが動く(変形ポテンシャル)現象を初めて目の当たりにして大興奮。その現象を、1987年の応用物理学会で発表した。

 「ところが、セッションに参加したのは、身内以外でたったの1名です。大変寂しい思いをしました」と当時の様子を語り、会場に大きな笑いが起こった。

 当時、それまでに多くの研究所や会社は、あまりの難しさから窒化ガリウムの分野から撤退していたという。研究を続けていたのは赤崎氏と天野氏ぐらいで、世間の窒化ガリウムへの関心は相当低くなっていた背景もあったのだろう。そんな時代の流れをものともせず、天野氏は次の足がかりになる発見をしている。

 それは、亜鉛を添加した窒化ガリウムに、「電子線を照射すると、青色の発光が強くなる」という現象だ。低加速電子線照射効果(LEEBI効果)と名付けられた。

 とはいうものの、「1985〜1988年まで実験を繰り返しても、p型の結晶は一度もできませんでした」と振り返る。

 1988年、天野氏は青色LEDが実現せず、博士論文も書けないまま、満期退学を迎えることとなる。

ついに実現! 世界初のp型LED

 満期退学になった天野氏は、赤崎氏の助手としてさらなる研究を続ける。その時読んだ本(J.C. Philips “Bonds and Bands in Semiconductors”)にあった、「亜鉛よりも、マグネシウム(Mg)の方が、よりp型化しやすい」という点に着目した。

 マグネシウムを添加しただけではp型化しない。だが、そこに博士課程時に得たLEEBI効果を加えたところ、ついにp型化に成功。1989年、世界初となるp型青色LEDを発表することになる。

 「マグネシウムならばきっとうまくいくに違いないと確信しましたが、問題はマグネシウムの原料の価格でした。助手の給料では、とても購入できる額ではありません。ですが、赤崎氏は快諾してくれました」

 世界初の偉業の裏には、もう1つ、1986年から共同開発が始まった、豊田合成が大きく関わっている。

 電子線を照射するのにかかる時間は1回につき、なんと7〜8時間だそうだ。しかも、大学の機器では電子線の量が不十分。そこで、実験のたびに豊田合成にある業務用機器を借りに通う事となる。

 実験のたびに、自宅がある名古屋の東の端から、会社のある西の稲沢まで1時間以上かけて、原付バイクで通ったそうだ。

 「実験が重なると毎日通って装置をお借りしていた。にもかかわらず、豊田合成さんは根気よく、しかも長期間受け入れてくれました」と天野氏は感謝する。

研究者達の努力が融合。実用化された青色LEDが世界を変え始める

 赤崎氏と天野氏が、長年不可能と思われていたp型青色LEDの開発をついに成功させた同年、当時NTTの松岡隆志氏(現・東北大学教授)が、窒化ガリウム(GaN)にインジウム(In)を加えたInGaNの結晶化に成功。それにより、「きれいな青色が再現できるようになりました」と言及した。

 1992年、ともにノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏が、低加速電子線照射ではなく、熱処理によるp型を開発。室温でもきれいに青く光る結晶を作ることに成功した。以降、その方法が主流となり、量産化に大きく拍車をかけることとなる。

 「その翌年の1993年に世界で初めて、低温バッファ層・p型・InGaNが融合した青色LEDが実用化されました」

 複数の研究者の努力が融合して実を結び、花開いた年だった。

 すでに存在した赤と緑のLEDに、青色LEDが加わって、フルカラーの表現が可能になった。分厚く重いブラウン管(CRT)は、徐々に液晶ディスプレイへと置き換わり始め、1999年にはフルカラーの携帯電話も登場したのは、まだ記憶に新しいのではないだろうか。

 「今では、単色ディスプレイの存在を知らない学生がいるほど、フルカラーディスプレイは当たり前の物になっています」と天野氏は笑う。

 さらに、青色LEDだけを用いた白色LEDも、1999年に実用化された。

 「私が考えていたのはディスプレイの応用だけでしたが、青色LEDが一般照明にも使われるようになるとは考えもしませんでした。青色LEDの登場で、世の中の照明も急速に変わりました」

 青色LEDの発見は天野氏の想像をはるかに超え、世界規模の省エネルギー化に拍車をかけるような一大発見となったのだ。

エネルギー削減、文化継承や教育にも役立つLED

 エネルギー効率の良いLEDに明かりが置き換わる事で、今後どのぐらいの省エネが期待できるのだろうか。

 米国エネルギー省によると、アメリカ国内のLED化率(明かりの置き換え率)は、2030年までに74%になるだろうと予測。その省エネ効果は、約300TWh(テラワットアワー)にも及ぶという。この値は、日本の原発が停止する2011年前までに発電した量に匹敵するそうだ。アメリカは日本の4倍電力を消費するが、割合としては7%になるそうだ。

 「これを日本に置き換えると、LED化率は2020年までに70%を超えると予想されており、アメリカよりも10年早く、7%の省エネ効果が実現できると試算されています」

 照明のLED化は、省エネにとどまらず、文化、教育にも影響が広がっている。そんなエピソードを天野氏は披露してくれた。

 モンゴル教育大臣が名古屋大学を訪れた際、「LEDはモンゴルの文化を守ってくれた」と大臣に大変感謝されたそうだ。

 大臣によると、モンゴルの国民の80%が現在でも放牧生活を営んでおり、放牧生活はモンゴル独自の文化として、これからも継承していきたいと政府は捉えている。

 文化の継承をする上で無視できないのが、今後もより求められる子どもたちの教育。太陽電池とバッテリーにLEDを組み合わせた「簡易照明」が普及したおかげで、子どもたちは夜でも当たり前に勉強できるようになったそうだ。LEDの発達は、放牧生活を維持する上で無くてはならないものになっているのだろう。

 同じように、電力にアクセスしにくい国々の子どもたちの教育にも、明かりが提供できるようになったという。

 「LEDの普及の鍵は、コストをいかに下げるかが、工学系の人間のこれからの課題です」と述べ、講演会を締めくくった。

窒化物の研究で、さらなる省エネを追求

対談のモデレーターを務めた、豊田合成顧問 太田光一氏

 講演後、豊田合成顧問の太田光一氏との対談で、天野氏はさらなるエネルギーの効率化の取り組みについて言及した。

 LEDについては、いかに安く、性能の良い物作るかということで、3次元構造化や、窒化ガリウム基板の上に作る事に取り組んでいる。その一方で、LEDの効率はまだ十分ではなく、より高い効率が期待できるレーザーの研究も進めていると言う。

 さらに、「電源」の取り組みについて話が及ぶ。効率が50%を超える太陽電池や、温度差の低い熱を電力に変換する研究の他、世界中の研究者も着目している「直流から交流へ変換するインバーターのトランジスタの研究」を最大の課題として天野氏は挙げた。

 現在のトランジスタは95%と効率は良いが、窒化物でインバーターを作ると、原理的には99%以上の効率が実現できるというのだ。

 筆者のような一般人にとって、95%ならもう十分と思えてしまう。だが、99%まで効率が上げられる可能性がある以上、研究者に妥協はないのだろう。

 「窒化トランジスタが実現すれば、9%の省エネが実現できる。つまり、LEDの7%に窒化トランジスタの9%が加わり、合計で16%の省エネが可能になります」というのだ。

 「16%の省エネは、原発の約半分を、窒化物の開発で節約できる可能性があるのです」と、今後の研究課題について天野氏は言葉を強めた。

スクリーンを挟んで研究当時を振り返る、太田氏と天野氏
太田氏の質問に、天野氏は丁寧に応えた
今後の研究について、熱く語る天野氏
天野氏の真摯な講演と、笑顔が会場を魅了した

 1983年に赤崎氏の研究室に入って装置づくりから始め、1993年には青色LEDを実用化し、2014年にノーベル物理学賞も受賞した。だが、研究の道のりはまだまだ続くのだろう。対談の中で、天野氏は1つの歌を紹介した。

 「憂きことの なおこの上に つもれかし限り ある身の力ためさん」

 これは、江戸時代の儒学者の熊沢蕃山(くまざわばんさん)の歌で、「人生は苦労ばかりだが、それでも前向きに頑張りなさい」という意味の歌なのだそうだ。天野氏は高校時代の校長先生から何度も聞かされ、大変な時にはこの言葉を思い出して頑張り、いつしか天野氏の座右の銘となったそうだ。

 また、ノーベル賞受賞以降、トレードマークとして有名だったポシェットが、オレンジ色から青色に変わったことも披露。それを照れながら見せる天野氏の印象的な笑顔とともに、1時間半に及ぶ記念講演会の幕が閉じられた。

(藤原 大蔵)