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[二十四節気23]昼と夜の長さがほぼ同じ「春分」、お花見で豊作を祈る

1年間を24の季節に分けた「二十四節気」で、「啓蟄」の次は昼と夜の長さがほぼ同じ日から始まる「春分(しゅんぶん)」です。今回は、春分の由来や桜の開花に合わせてお花見のトリビアをご紹介します。隅田川の桜並木は、堤防沿いに座って見ても川下りをしながら見ても良い景色ですが、ここは江戸時代のとある将軍によって作られたお花見スポットなのだそうです。

 

昼夜の時間が等しい「春分」、実は約14分違う

二十四節気の「春分」の初日は、連載の11回目でご紹介した「秋分」と同様、太陽が真東から昇って真西へ沈み、昼と夜の長さがほぼ等しくなります。1878年の暦便覧にも「日天の中を行て昼夜とうぶんの時なり」と紹介されています。しかし、昼夜の長さは昼のほうが少し長いのはご存知ですか。これは、日の出を太陽の上端が地平線に重なり明るくなり始めたとき、日の入りを太陽の上端が完全に地平線に重なり沈んだときとしているうえ、大気による光の屈折で太陽が実際より上に見えることなどが理由です。日本の平均値では、春分の日の昼の長さは12時間7分、夜の長さは11時間53分で、約14分の差があります。2018年の春分は3月21日から4月4日まで続きます。

 

【二十四節気11】日の名前であり、時季の名でもある「秋分」
https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/lifestyle/1162826.html

 

祝日の「春分の日」は、前年2月の最初の平日に決まる

「春分の日」は現在「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨とした国民の祝日に定められていますが、もとは仏壇や墓を掃除してぼたもちを供え、先祖の霊を祀る日でした。これは、仏教では真西へ太陽の沈む春分と秋分の日に、遥か西の極楽浄土(彼岸)とこの世(此岸)が最も近くなるという考えに由来します。1878年にそれまでの歴代天皇や主な皇族の霊を祀る「春季皇霊祭」が執り行なわれ、翌年から祝祭日となりました。さらに時を経て、1948年公布の「国民の祝日に関する法律」によって、「春分の日」になりました。ところが、法律で「春分日」とは記されていますが日付は指定されていません。実は、春分日と秋分日は、国立天文台の観測に基づき前年に閣議で決定され2月第1平日付の官報で政令「暦要項」に「春分の日」として公告される移動祝祭日なのです。

 

桜の開花シーズン到来、お花見は豊作への祈りが起源

毎年、春分の日前後に西日本から順に桜が開花して、お花見シーズンに入ります。現在では、お花見は春の宴として多くの人に楽しまれていますが、かつては田の神様へその年の豊作を祈るという意味がありました。一説によると、桜の「サ」は山の神様、「クラ」は座する場所を表し、「サクラ」は田の神様が山から里へ降りてくるとき、いったん留まる依代(よりしろ)を表すとも言われます。また、桜の花を稲の花に見立てて、花の咲き具合で秋の収穫を占ったという話もあります。お花見は、秋の豊作を願い、桜の下で料理や酒のおもてなしをして田の神様を迎えるためのもので、お下がりを人々も一緒にいただくというのが本来の姿だったようです。

 

お花見を庶民も楽しめるようした、8代将軍吉宗の計らい

日本のお花見は、奈良時代の貴族の行事が起源とされています。当時は、中国から伝来したばかりの梅を鑑賞するのが主流でしたが、平安時代から桜に変わったと言われています。お花見が貴族の行事から庶民の娯楽へと広まったのは江戸時代のことで、お花見の名所と言えば、3代将軍徳川家光が奈良から桜を移植した上野の山が有名でした。しかし、この山にある寛永寺が歴代将軍の菩提寺になったのを機に、「飲めや歌えや」の大騒ぎができなくなり、再び庶民へ娯楽を提供しようと8代将軍吉宗が、飛鳥山(現在の東京都北区)、隅田川上流の土手、品川の御殿山に桜を植樹しました。ちなみに、当時もお花見の食べ物と言えば、花見団子や花見弁当が定番だったようです。気の合う仲間や家族と一緒に、日本の春の風物詩を楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

春風に桜の花びらが舞い踊るころ、春分の次は「清明」

春の日差しが強くなり、そよ風に桜の花びらが舞い散るようになると、次の節気「清明」がやってきます。次回は、清明の由来や習わし、桜のシーズンにちなみ、桜を使った食べ物や飲み物をご紹介します。お楽しみに!

 

 

高橋尚美

愛知県の渥美半島生まれ。東京での会社員生活から結婚出産を経て、2009年に夫の実家がある岐阜市へ。几帳面な戌年の長女、自由奔放な子年の次女、愛嬌いっぱいの辰年の三女を育てる母ライフを満喫しつつ、qufourのリサーチ記事や地元で発行している食育冊子の記事を執筆しています。