魔法瓶の歴史と今
~大阪・天満の象印「まほうびん記念館」を訪れる

by 大河原 克行
大阪・天満の象印マホービン株式会社本社

 大阪・天満の象印マホービン株式会社本社内に、「まほうびん記念館」がある。

 2008年5月、象印マホービンが創業90周年を迎えたのにあわせて、同社の主力事業である魔法瓶の進化を紹介するとともに、魔法瓶の今後の方向性などを示すことを目的として、本社1階に設置したものだ。同社の歴史だけでなく、魔法瓶そのものの歴史に触れることができる展示内容となっているのが特徴といえる。

 また、まほうびん記念館では、企画展を随時開催しており、8月31日までは、「すいとう展」と題して、水筒の歴史を、実際の商品を見ながら辿ることができる。

 このほど、まほうびん記念館を訪れる機会を得た。魔法瓶の歴史、そして、企画展である「すいとう展」に見る水筒の歴史を辿りながら、まほうびん記念館を紹介しよう。

 まほうびん記念館は、大阪市天満の象印マホービンの本社1階に開設されている。開設からちょうど1年を経過したところだ。

まほうびん博物館は本社の1階に開設されている魔法瓶の歴史を幅広く紹介している

 南森町駅、大阪天満宮駅、天満橋駅を利用することが可能だが、いずれも徒歩10分程度の距離にある。

 開館時間は平日の午前10時から午後4時まで(途中正午から午後1時までは休憩)。見学するには事前の予約が必要。「展示内容を単に見学いただくよりも、1時間程度、説明を受けながら見ていただきたいという想いがある。そこで、事前予約の仕組みとした。この1年間に、企業や学校からの見学の申し込みをいただいた」と、まほうびん記念館の運営を担当する同社広報グループ・粟津重光氏は語る。

 一回10人程度を目安とし、1週間前までに電話で申し込むという仕組みだ。

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元祖魔法瓶は実験用のフラスコだった

まず入るとビデオ絵本「まほうびんが生まれるまで」を見ることができる

 まほうびん記念館の入口を入ると、まず最初に「まほうびんが生まれるまで」と題したビデオ絵本を見ることができる。ここでは、太古の時代から人類がどうやって保温や保冷の工夫をしてきたのか、そして、魔法瓶の仕組みや歴史などについても知ることができる。漆塗りのお椀が保温効果があることなどもわかりやすく紹介している。

 魔法瓶は、熱の伝導、対流、放射を遮るために、真空構造を採用。これにより保温するというのが基本的な原理だ。

 この説明を聞いた後、後ろを振り返ると、そこには魔法瓶の原型となった「デュワー瓶」のレプリカが置かれている。英国の博物館の協力を得て、寸法などを精密に再現。「実際のデュワー瓶と、ほぼ同じものを復元することができた」(粟津氏)という。

 イギリス人のジェームズ・デュワー氏は、1892年(明治25年)に、世界で初めて真空を利用した実験用のフラスコを開発した。開発の目的は液体酸素を保存するための用途であり、真空による放熱遮断構造を利用した二重のガラス瓶内部に銀または銅メッキを施し、熱の放射によるロスを最小限に食い止める仕組みとしていた。

 真空の原理は、すでに17世紀半ばに確立されていたが、1880年代にドイツの物理学者であるA.F.ヴァインホルト氏が、多重の壁間の内部を真空にする容器の原理を発明。これをもとに、デュワー瓶が開発されたといわれる。

デュワー瓶のレプリカ。サイズなども精密に復元されているというジェームス・デュワー氏

 1904年には、ドイツ人のラインフォルト・ブルガー氏が、デュワー氏が開発した真空瓶を、保護用の金属ケースによって覆うことで、家庭用品として利用できることを思いつき、商品開発を始めた。これが魔法瓶の商品化の第1号だといっていい。

 この時、ネーミングを募集し、決定したのが「テルモス」。ギリシャ語で「熱い」という意味を持つ。ブルガー氏はドイツ・ベルリンでテルモス社を設立し、1907年には英国、米国、カナダにも現地法人を設立し、一気に世界中に魔法瓶が広がっていったという。

 当時は、登山家、探検家などにも重宝され、これが高い保温性能を証明する結果にもなった。1909年にテルモス社が新聞に掲載した広告では、北極探検のDr.クック氏やピアリー氏、南極探検のシャクルトン氏、人類初飛行を遂げたライト兄弟、飛行船開発のツェッペリン氏などの名前が、利用者として書かれている。


魔法瓶メーカーで動物ロゴが多用されている理由

1908年当時の広告。「驚くべき発明なる 寒暖壜(かんだんびん)」とのコピー

 日本に魔法瓶が輸入されたのは1908年のことだ。当時の広告には、「驚くべき発明なる 寒暖壜(かんだんびん)」というキャッチフレーズが用いられ、冷たい水も、熱いお湯も、長い間その温度を保てるというテルモス社の魔法瓶の機能を紹介している。

 1910年には、イトーキ(当時の伊藤喜商店)の伊藤喜十郎氏が、鉄砲店に試験的に並べられていた魔法瓶を見つけ、これを大々的に宣伝。1911年には名妓を起用した魔法瓶の宣伝や、「保温保冷24時間保証真空瓶」の名称によって、広く認知されるようになっていったという。

 ところで、魔法瓶の名称だが、実は、命名者も命名時期もはっきりしていない。「熱湯がいつまでも冷めない、魔法のような瓶という言い方が、魔法瓶になったのかもしれない」と粟津氏は語る。

 当時のことを記した文献では、伊藤善之助氏が名付け親とされたり、動物学者であり、帝国学士院会員であった飯島魁博士が名付け親とされる説などがある。

 日本で初めて魔法瓶が生産されたのが1912年のことだ。

日本で初めて魔法瓶を開発した八木亭二郎氏

 発明したのは電球の専門家であり、日本電球に勤務していた八木亭二郎氏であった。電球の生産には真空技術が必要であり、その技術を生かして開発したものだった。八木氏は、国内初の魔法瓶の開発とともに、八木魔法器製作所を創立。それを皮切りに、ピーク時には40社以上の魔法瓶メーカーが林立する時代を迎えることになる。

 実は、大阪には魔法瓶メーカーが多い。象印マホービン、タイガー魔法瓶といった大手のほか、中瓶などの主要部品のメーカーも大阪に集中しており、現在でも全国シェアの多くを大阪地区の企業が占めている。その背景には、当時の大阪は、日本のガラス工業の中心でもあり、それらの企業が、自らが持つ真空技術を生かして、新事業として魔法瓶事業に乗り出していたことがある。

大正時代に生産された魔法瓶の数々

 大正時代に入ると、第1次世界対戦の勃発とともに、魔法瓶の需要は飛躍的に拡大する。また、水が不衛生なため、沸かして保温、保冷をする東南アジアやインド、中近東方面では生活必需品として魔法瓶の需要が拡大。国内生産量の90%が輸出という産業構造となっていた。

 もともと欧州で広がっていた魔法瓶だが、英国の植民地化などによって、欧州から東南アジアなどに魔法瓶の文化が広がったことも、この地域での普及に大きく影響しているようだ。また、大阪が東南アジア貿易の拠点となっていたことも、輸出を促進することになったともいえる。

 実は、国内の魔法瓶のメーカーやブランドに動物名が多いのも、過去に輸出中心産業であった点が影響している。海外でも、一目で見て、どこのメーカーかがわかるようにという狙いとともに、タフな動物の印象をそのまま製品に印象づけるための狙いがあったといえよう。象(象印)、虎(タイガー)のほか、兎、孔雀、犬、星などがあった。

 このとき、海外では、大容量で、氷の貯蔵容器としても使いやすい広口タイプが人気となったほか、中国では内面の色が濃いものが好まれるため銅メッキを施したものが登場したという。日本では淡い色が好まれることから、銀メッキを内部に施したものが人気だったという。


こぼれない、エアー式など付加価値で勝負

戦後第1号の卓上用魔法瓶となったポットペリカン。展示されているのは復刻版

 第2次世界対戦に突入するとともに、魔法瓶の生産は一時休止状態となったが、1945年の終戦とともに、魔法瓶産業が復興する。

 1923年には戦後第1号の卓上魔法瓶となる「ポットペリカン」が象印から登場。その可愛らしい形状から長年に渡り人気製品となったほか、1958年にはソーダガラスを使用することで、傾けてもこぼれない新型せんが開発され、魔法瓶を携帯して利用するという用途が一気に拡大することになる。また、1963年には、自動製瓶機が開発され、魔法瓶の中瓶の量産化に成功。これが、品質の安定化と、大量生産、コストダウンに大きく寄与することになる。

 「それまでは熟練の職人が9人1組で作業を行なって、1.8Lの中瓶を一日500本しか作れなかった。それが比較にならないほどの大量生産が可能になり、品質のムラを無くすことにもつながった」という。

ソーダガラスを使用した傾けてこぼれない新型センを採用した魔法瓶戦後までは海外製品のデザインを模倣したものが多かったが、徐々にオリジナルが増える。写真は1956年のスーパーポットS型手吹きによる中瓶の製造の様子。9人1組で一日500本を作った

 これ以降、魔法瓶の技術は、ご飯を保温する魔法びつ(ジャー)、アイスクリーム販売のための保冷容器、弁当箱などにも利用されるようになった。

自動化以降、中瓶は大量生産と品質向上とともに、写真のような様々な形を生産できるようになった大量生産が可能になったことで魔法瓶の技術は様々なものに応用されるようになった。これはアイスクリーム用の保冷容器お米を保温するジャー

 魔法瓶の使い勝手の進化も同時に始まっていった。1963年には傾けるだけで、蓋を自動的に開閉するオートフラップ機構の採用、1968年には下部に回転台をつけて、360度のあらゆる方向に給湯できる回転式の採用。さらには、1972年にはエアー式と呼ばれるレバーや蓋中央部を押すことでお湯を注ぐことができる仕組みも採用された。

傾けるだけでお湯を注ぐことができるオートフラップ機能を搭載した魔法瓶硬質ガラスを中瓶に採用し、安全性を高めた二重蓋などを採用したUポット。ヒット商品だ魔法瓶の下に回転台をつけて、どの方向でも給湯できるようにした

 エアー式は、当初は、ナショナル魔法瓶が搭載したレバー方式が先行したが、象印の「押すだけ」をキャッチフレーズにしたテレビコマーシャルが広く知れ渡り、最終的にはプッシュタイプが主流となった。

 どちらのエアー式も、パイプの中の空気を中瓶に送り込むことで、その空気圧でお湯が押し下げられ、お湯が注ぎ口から出てくるというもの。エアー式における改良は各社の重要な課題ともなり、小径ベローズ(パイプ)の採用により、指一本で押すことができたり、いつも同じ方向に乱れずお湯が出るようにしたり、飛散防止せんの採用による流出水の飛び散り防止、パスカルの原理を利用した残量表示といった工夫が凝らされていった。

 エアー方式の魔法瓶は、73年には大手魔法瓶メーカー6社から出揃い、発売からわずか2年で、出荷比率の半分を占めるようになったという。

エアー式の卓上魔法瓶も使い勝手を格段に進歩させた機能プッシュ式を決定的とした「エアーポット押すだけ」のテレビCMその後、押すだけシリーズは、電気エアーポットに進化した

 使い勝手という点では、胴継ぎ方式の採用も大きなインパクトがあった。もともと外瓶を太くすると、胴径と口径の差が大きいため、一気に径を絞れないという問題があったが、これを胴継ぎ技術によって解決。太瓶化したことで、背丈が低く、座ったまま手が届く卓上魔法瓶の開発に成功した。

胴継方式により太瓶化し、背を低くすることに成功したエアーポット押すだけ太瓶 VBA型ノック式ボールペンの原理を応用し、押すだけで簡単に開閉できるプッシュせんを採用したグッチーニポットVGC型パスカルの原理を応用して残量チェックを可能にした「みェ~るポット」シリーズ


移り変わる魔法瓶のトレンド

 ところで、魔法瓶には、かつて独特なデザインがあった。

 それは花柄である。昭和40年代を体験したことがある読者ならば、家のなかには必ずといっていいほど、花柄を施した卓上用魔法瓶があったことを記憶しているに違いない。このデザインが、第一次の魔法瓶ブームを巻き起こしたといっても過言ではない。

 厚地の金属に直接印刷する鋼板印刷技術を使い、鮮やかな色や花びらの質感などを表現。お茶の間に彩りを添えた。

 花柄で先行したのは、エベレスト印の魔法瓶を開発していたナショナル魔法瓶であった。

 1967年に花柄を施したポットを発売すると、それを象印とタイガーが追随。一気に花柄デザインの魔法瓶が広がった。

花柄のポットは一世を風靡した。こちらはより写実的な花柄が特徴的なデザインどこの家庭にもあったデザインだ鮮明な塗装を実現するために高度な印刷技術を活用した

 当時の文献などによると、ナショナル魔法瓶では、「適齢期になった女性が訪問着を欲しがるように、魔法瓶では花柄を求めるだろう。魔法瓶業界がデザイン、色彩面で適齢期を迎えたものといえる」と、このブームを表現した。一方で、象印は、「花柄」ではなく、「花模様」と表現していたという。

 1978年になると、ステンレス時代が到来することになる。

 携帯用の魔法瓶では、割れないことが重要な要素。とくに、子供が手荒く扱った場合に、割れて熱湯が流れ出すという事故防止の観点からも、割れない魔法瓶の開発は重要だった。

 象印がステンレス魔法瓶を開発したのは、1981年。割れず、錆びず、丸洗いができるという特徴とともに、真空部分を薄く仕上げることで小型、軽量化も実現。中瓶もボディもオールステンレスとした魔法瓶の製品化や、レジャーユース、パーソナルユース、オフィスユースなどの利用シーンに応じた製品を相次いで開発。アウトドアでのファミリーユース用に開発された大容量ステンレス携帯用魔法瓶は、その耐久性の高さから、東海道新幹線の車内販売のコーヒーサービスでも採用された。

オールステンレス製の真空二重瓶としたステンレスサーモスタフボーイSTA型東海道新幹線のコーヒーサービスで利用されたステンレスエアーサーモスタフロードSKA型様々な利用シーンに対応したステンレス魔法瓶が登場した

 「ステンレスが採用されるようになってから、数々の開発目標が設定された。部品加工精度の向上や、組立溶接治具の開発により真空層の隙間を少なくしたり、薄板加工技術、溶接技術の改良により、熱伝導を抑え、口径を大きくすることで、より軽く、使い勝手の良い携帯型魔法瓶が開発されるようになった」(粟津氏)という。

 1994年に発売された児童用魔法瓶と、2003年に発売された児童用ステンレス魔法瓶を比較すると、外体積は1,160ccに対して、970ccと小型化。重量も430gから330gへと軽量化しているのに対して、容量は610mlと600mlとほぼ変わらない。これはステレンスの採用とともに、真空層厚を3.55mmから1.15mmへと大幅に薄くしているからである。

 現在、ステンレス魔法瓶は国内全体で、年間978万台(2008年実績、ステンレス製まほうびん協議会調べ)に達している。

ステンレス魔法瓶は業務用にも広がった。ステンレススーパーポットSTH型金や銀を施した高級卓上用魔法瓶「OLEZZO(オレッツォ)」。バブル時代の1991年に製造。右が1994年に発売された児童用魔法瓶、左が2003年に発売された児童用ステンレス魔法瓶。真空層厚の差があるのがわかる。


象印の歴史を細かく展示

 なお、まほうびん記念館では、1,300点にのぼる製品を所蔵しており、象印マホービンの90年に渡る歴史についても常設展示している。

 まほうびん&ポット、ジャー&炊飯器、電気調理器、環境・健康機器、アイデア商品の5つのジャンルに分類し、商品を展示して、その歴史を紹介しているほか、ドキュメント映像やテレビCMなどを放映する「暮らしの夢シアター」、真空の仕組みを視覚や聴覚によって体験できる「真空のふしぎ体感コーナー」、象印マホービンの未来へ向けての取り組み、宇宙開発やスポーツ、産業などへ貢献する新たな技術を紹介する「象印マホービン未来進行形」の展示コーナーも用意されている。

象印の歴代製品を5つのカテゴリーに分類して展示しているドキュメント映像やテレビCMなどを放映する「暮らしの夢シアター」ボタンを押すと真空状態が作れ、ボールの様子や、ベルの音がどう変化するかを体験できる
真空状態にした場合に熱の伝わり方が少ないことを体感できる「象印マホービン未来進行形」の展示コーナー
未来のステンレス魔法瓶のデザイン女子マラソンの野口みずきさんが実際に使用したステンレスボトル。体の冷却用と給水の機能を持つ。これでアテネオリンピックの金メダルを獲得した


企画展を随時開催。今月いっぱいは「すいとう展」を開催

まほうびん記念館の中央部などで実施されている「すいとう展」

 一方、企画展として、8月31日まで実施している「すいとう展」は、象印がこれまで発売してきた水筒の数々を展示し、その進化の過程を検証していくことを目的に行なわれているものだ。年代別、素材別などに区分けされた水筒を見ることで、その進化に触れることができる。

 今回のすいとう展は、まほうびん記念館の中央展示スペースなどを利用。「昭和20年代からの携帯用まほうびん」、「ガラス製まほうびんとプラボトル」、「ステンレスまほうびん」、「ディズニー柄のすいとう」、「グッドデザイン賞受賞のすいとう」、「いろいろなかたちのすいとう」といったコーナーに分類された展示が行なわれている。

 「昭和20年代からの携帯用まほうびん」では、ボディに真鍮やアルミを施した水筒を展示。「当時の水筒は、家族揃って温かい飲み物とともに、野外での食事を楽しむという生活を実現するための道具として製造された」という。

 「ガラス製のまほうびんとプラボトル」では、ボディは金属だが、柄の入った楽しい魔法瓶を展示している。

 1963年以降、人気を誇った水筒で、保温力が特徴だったが、素材がガラスであり、真空二重瓶の構造となっていたため、不注意で落とすと派手な音を出して割れてしまうという課題があった。

 これに対して、1965年から新発売となったプラボトルは、「象印保温水筒」というキャッチフレーズで発売されたもので、ポリプロピレン製の中容器と胴体の間に硬質ポリウレタンフォームの断熱材を入れることで保温力を実現。「割れない」という特徴が人気を博し、同社製品だけで、年間100万本も売れていたという。だが、魔法瓶構造の水筒に比べると、保温力は低くかったという。

ボディに真鍮やアルミを施した「昭和20年代からの携帯用まほうびん」「ガラス製のまほうびんとプラボトル」の展示プラボトルは、「割れない」という特徴が人気を博した
「ステンレスまほうびん」の展示コーナー。代表的製品が展示されている

 「ステンレスまほうびん」のコーナーでは、ステンレスを素材とした魔法瓶を展示。それまでのガラス魔法瓶弱点であった「割れる」という課題を解決するとともに、プラボトルの弱点である「保温効力」も解決。象印が発売した「タフボーイ」は、持ち歩く魔法瓶として、それまでの商品の概念をひっくり返した。

 また、1985年に発売した円筒形の「タフスリム」、1986年に発売した大容量型の「タフロード」、1989年に発売し、カラー化が女性にも人気となった「タフボーイNAVI」、1999年発売の軽さ、薄さともに究極を実現した「タフスーパースリム」も展示している。

1963年に登場したディズニー柄の水筒。40年以上も商品を提供し続けている。展示しているのは初期のもの1983年度のグッドデザイン賞部門別大賞を受賞した、スポーティサーモス「アトム」1985年発売の迷彩色のカバーをまとったステンレスサーモス「タフアーミー」など


家庭で1個から1人1個の時代へ

 最近の水筒の利用方法は「マイボトル」化である。従来の水筒には、内蓋に予備のカップが付いていたように複数の人で飲むことを想定していたが、最近では1人1個の水筒という使い方が主流になっており、スリム化やお洒落なデザイン、個性を発揮できるようなものが注目を集めている。象印が、こうした利用を想定したタフマグを発売したのが2003年。いつでも、どこでも自分のカフェタイムが演出できるという提案へと進化させた。

 すいとう展を訪れると、まほうびん記念館特製のオリジナルデザインの絵柄を入手できる。この絵柄は、マイボトルとして利用するステンレスマグ「SM-BA35」で着せ替えデザインとして利用できる。これも個性的なマイボトルの提案の1つといえそうだ。

 なお、まほうびん記念館では、昨年11月から今年3月まで「8人のデザイナーと象印展」を第1回企画展示として開催。デザイナーと象印のコラボレーションによる製品を紹介した。今回のすいとう展は、第2回目となる企画である。同記念館では、テーマを選別しながら、今後も継続的に企画展を実施していく予定だという。




2009年6月8日 00:00