【特別企画】

シャープ、「誠意と創意」の歴史を辿る 第3回

~失意から再出発、電機メーカーとしての一歩を踏み出す
by 大河原 克行


 シャープの歴史について全6回で掲載しております。(編集部)

 第1回/第2回/第3回/第4回/第5回/第6回



八方ふさがりでシャープペンシルの特許を全て譲渡


シャープの創業者である早川徳次氏
 関東大震災ですべてを失った早川徳次氏は、失意のどん底に陥った。30歳のことだ。

 約1カ月間は、被災した70人の従業員たちと一緒に暮らしていたものの、手元に残ったわずかな資金もどんどん目減りしていくばかりだった。

 しかも、そこに追い打ちがかかった。

 関東地域の販売を委託していた日本文具製造(本社・大阪)から、特約契約金の1万円と、 事業拡張金として融資していた1万円の合計2万円を返済するように申し入れがあったのだ。日本文具製造には売掛金として9,000円程度があったが、この条件を飲まない限り、これを回収することもできない。周囲の企業や銀行が衣食を優先せざるを得ない状態のなかで、すでに資金調達では八方ふさがりとなっていた徳次氏にとっては、まさに引導を渡されたような状況だったろう。

 悩みに悩んだ徳次氏は、早川兄弟商会を解散し、事業のすべてを、日本文具に譲渡することを決断したのだ。妻、子供をなくした失意も、この決断に影響したのだろう。

 1923年11月、徳次氏は単身大阪へ向かう。早朝、大阪駅に降り立った徳次氏は、そのまま日本文具製造の本社に向かい、同社の親会社である中山太陽堂社長の中山太一氏、日本文具製造社長の中山豊三氏(太一氏の実弟)と面会した。

 ここで合意を得たのは次のようなことだ。

 2万円の支払いを免除する代わりに、早川兄弟商会が所有する機械を日本文具製造に譲り渡すこと、徳次氏が持つ48種類の特許を無償で使用させること、売掛金9,000円を早川兄弟商会に支払うこと、早川兄弟商会の一部技術者を適当な条件で雇い、さらに徳次氏を技師長として6カ月雇うことで技術移転をすること――などだ。

 早川兄弟商会が持つ機械だけで22,000円相当というから、中山太陽堂および日本文具製造にとっては、かなりいい条件での取り引きだったといえる。

 東京に帰った徳次氏は、工場から機械を荷造りするとともに、多くの従業員に別れを告げ、14人の技術者とともに大阪に向かった。当時の大阪府東成郡相生通りに、家賃42円の二階建ての家を借り、ここで全員が寝泊まりするという形で大阪での生活がはじまったのだ。

 「東京生まれの私が大阪へやってきて、事業を新たに興したというとちょっと派手に聞こえるが、体のいい都落ちであった。時の勢いで、やむなく大阪にやってこなければならなかった」と、徳次氏は、この時の様子を語っている。

自分の工場で地域を発展させていく

 日本文具製造での6カ月間は、徳次氏にとってはいいことばかりではなかった。やり方の違いや、意見が食い違って対立することもしばしばだったという。だが、その一方で、商魂に徹した大阪の土地柄、地位や毛並みを問題にしないという風土が気に入り、この地で再起を図ろうという決意を固めていくことになる。

 相生通りの借家近くで懇意になった荒物屋の主人の紹介で、大阪の南の郊外にちょっとした土地があると聞かされ、一日出向いたことがあった。

 水田続きの場所で、麦の穂が伸び、黄色い菜の花が揺れる穏やかな田園風景だ。あちこちに、村の子供たちが遊ぶ姿も見られていたという。

 徳次氏は、この場所が一発で気に入り、即座に借地することを決定したという。ここが、現在のシャープ本社がある大阪市阿倍野区長池町である。

 235坪の土地を坪6銭で10年間借用し、すぐに工場と住宅を建設。8月31日に日本文具製造を辞するときには、すでに工場が竣工していた状態だったという。

1928年当時のシャープの本社社屋(現在の大阪市阿倍野区長池町)

 「なぜ、こんなへんぴな土地を選んだのかというと、地代が安かったことに加え、自分の工場を大きくすることで、不便なこの地を発展させてみせるという気持ち、遊んでいる村の子供たちが成人したときには私の工場にきて事業の発展に協力してくれるに違いない、という夢を描いたから。土地の不便さは気にならなかった」

 関東大震災からちょうど1年を経過した1924年9月1日。この地に「早川金属工業研究所」の看板を掲げ、徳次氏は再スタートを切る。日本文具製造で働いていた14人の技術者たちも、「日本文具製造と同じ月給は払えそうにない」と言ったにも関わらず、最終的には全員が新会社に来てしまったという。

 シャープペンシルの特許はすべて譲渡してしまったため、新会社では新たな事業を行なわなくてはならない。そこで、まずは万年筆の付属金具や、グリップなどの製造を行なった。

新境地「ラジオ」にいち早く目を付ける

 1924年のある日、徳次氏は海外で実用化されていたラジオに関心を持つようになる。「常に他より一歩先に新境地を拓かねば、とうてい事業の成功は望まれない」とし、これまでの事業から見れば専門外のものではあったが、新事業の開拓の柱にラジオを据える決意をしたのだった。

 ちょうどこのとき、心斎橋の時計店に米国から鉱石ラジオの第一便が届き、その場に偶然居合わせた徳次氏は、7銭50銭でこれを購入した。これが、電機メーカーとしてのシャープの第一歩だったといっていい。

 持ち帰った徳次氏は、社員とともに鉱石ラジオの分解、研究を開始した。ラジオ放送の開始は翌年まで待たなくてはならなかったから、工場にモールス信号を送る機械を据え付けて、これで試験をしたという。

 研究の結果、自分たちで小型鉱石ラジオを完成させることができたのが1925年4月のことだ。この鉱石ラジオがシャープの電機製品第1号ということになる。

1925年に開発されたシャープの第1号鉱石ラジオ受信機。価格は3円50銭だった鉱石ラジオをテストする早川徳次氏(右)最初のラジオは早川のロゴで製品化していた

 これを前後して、東京では3月に、大阪では6月にラジオ放送が開始され、それにあわせ、早川金属工業所は、ラジオの市販を開始した。当初は「鉱石受信機」としていたが、しばらく経ってから「シャープ」と銘打ち、その品質の高さから、シャープラジオの名が全国に知られるようになる。

 「もともとシャープペンシルにちなんで採用したものであるが、むしろ、感度よく受信できるラジオの商標として、この方が象徴的であった」と、徳次氏自身は、シャープラジオの名を相当気に入っていたようだ。

美しいデザインを採用したシャープダイン「奉仕号33型」。当時のベストセラー商品シャープダインにつけられた「SHARP」のロゴ当時のシャープダインのカタログ

 形容詞であるシャープが商標として認可されるまでには2年を要したという。

 商標が認可されなくても、受信感度の高さと、市価の高騰に便乗せずに適正価格での販売を心がけたこともあり、シャープラジオは飛ぶように売れた。毎日、ラジオを扱う店に商品を持っていっても、恵比須町から心斎橋までの間に大半が処分できてしまう。梅田まで行く頃にはすべて空になっているという状況。卸したばかりの商品を、その場で客が購入していくということもしばしばみられたという。このときも、徳次氏は営業の最前線に出て、生産は社員に任せる仕組みとした。

 徳次氏は営業活動のなかで、1つの決まりを設けていた。それは、どんなに売り上げがあがっても、自分と社員の馳走は、1日うどん一杯。事業拡大のための資金確保を徹底したのだ。

 実は、ラジオ販売が軌道に乗り始めたころ、日本文具製造から送られた一通の内容証明をもとに、長年に渡る訴訟を余儀なくされている。それは、早川兄弟商会から日本文具製造に2万円が支払われていないため、即時返済せよというものだった。

 徳次氏にしてみれば契約は履行していたが、必要な契約書類を作成していなかったこと、保証金および融資金証書の返還を受けていなかったことなどの法的な手落ちがあり、それを相手が突いてきたというのだ。訴訟は2年10カ月におよび、最終的には示談の結果、徳次氏側が15,000円を支払うということに落ち着き、その支払いは1934年まで続いた。当時、勢いがあった日本文具製造の前に為す術がなかったがゆえの結果だった。

 ラジオ放送が全国化するのに伴い、シャープのラジオは全国で人気を博すとともに、海外にも輸出されるようになった。

数々のラジオ用部品の販売。組立キットも用意していたラジオ部品の1つである低周波トランスフォーマ


会社体制を整え大量生産を開始

 1935年5月1日、それまでの個人経営から脱却。資本金30万円で、株式会社早川金属工業研究所を設立。翌年には、社名を早川金属工業に改称。生産体制も整えていった。

 1936年になると、満州に設立された国策会社の満州電々から、日本のラジオメーカーに対して、ラジオの大量発注がかかるようになった。早川金属工業もその一社であった。だが、大量注文であるがゆえ、提案された価格が安く、従来の生産方法ではこれに対応できないといわざるを得なかった。そこで徳次氏は、それまで採用していた手作り式流れ作業をもとに、独自の間歇式コンベア装置を開発。これを実用新案として登録した。

シャープダインの屋外広告シャープ独自のラジオの間歇式コンベア装置による生産

 のちの製造方式の主流となるコンベアシステムの基礎ともいえるものだ。これを利用することで、ラジオの生産速度が極端に向上。1台56秒で生産するとともに、大幅なコスト削減も実現することができ、満州電々からの要求にも応えることができたのだ。

 戦火が広がるなか、ラジオの需要は拡大を続けた。

 1942年には早川電機工業に社名を変更。同時に、短波、超短波の技術研究所を設立し、航空無線機の生産を開始。1944年には軍需会社に指定され、航空無線機の大量生産を開始することになる。

 1945年、敗戦を迎えた日本では、故障したラジオが、あちこちの家庭のなかに置かれていた。幸いにも、同社の拠点は、東京営業所を除いて戦禍を避けることができた。徳次氏は、まずラジオの修繕奉仕を開始。そのなかで、復興に向けた営業方針を策定。生産規模を縮小しながらも、シャープラジオの生産に特化することなどを掲げた集中戦略によって、経営体制の建て直しに取り組んでいった。

 1951年には民間ラジオ局が続々と開局。ラジオの聴取者が1,000万人を突破したことも手伝い、シャープは再び、ラジオメーカーとしての地位を確実なものにしていった。

大阪市内に開設した靭営業所の様子。ラジオのほか、パーツなどを展示販売した営業所ではラジオをはじめとする同社製品を展示するとともに製造面での強みを訴求


1インチ1万円で家庭への普及を促進

 国産テレビ量産第1号機を開発したのは、実はシャープである。

 1952年には日本で初めて米RCAと基本特許契約を締結。1953年2月のテレビ放送開始を前に、国産テレビ量産第1号機である「シャープテレビ TV3-14T」を発売。12インチ、14インチ、17インチの3機種をラインアップ。当社は月産15台だったものが、年末には月産500台にまで拡大した。高卒の公務員初任給が5,400円のときに、175,000円という価格ながら、「目で見るラジオ」の人気は留まるところを知らなかった。

シャープが開発した国産第1号白黒テレビ。当時の価格は175,000円。公務員の初任給は8,700円だった時代第1号白黒テレビにつけられたシャープのロゴ「砂かぶりの興奮を、今年こそぜひわが家で!」のキャッチフレーズを用いた広告。14型に特化しているのがわかる

 この時、徳次氏は、「14インチこそ、日本の家庭に最適なサイズ」と考え、1インチ1万円での商品化を目指した。当初は街頭テレビとしての普及が注目されていたため17インチが主流になると見られていたなかで、シャープは家庭への普及を目指していたのだ。そして、14インチにしたのは、米国から調達するテレビの部品が有利な条件で購入でき、1インチ1万円を実現するには最適であったことも見逃せない要因だった。

 1953年には目標となる14インチで145,000円を実現。近年になって、液晶テレビでも目指していた「1インチ1万円」の元祖ともいえる取り組みが、このとき行なわれていたのだ。

 シャープテレビの製品化とともに、同社がこだわったのが、アフターサービス体制の構築であった。同社では、修理体制を確立することが、テレビの普及には重要だと判断し、テレビ組立技術講習会を開始したのだ。まずは社内の技術者を対象に、約30週間にわたり、日曜日返上で講習会を開催。さらに、全国の販売店に対する技術講習会も実施し、万全のサービス体制を敷いた。

 この考え方は、1970年に設置されたATOM隊につながる。ATOMとは、「アタック・チーム・オブ・マーケット」の頭文字によるもの。系列店の支援を目的に、四十七士になぞらえるように47人でスタート。販売店の手が回らないような家庭に訪問し、テレビの診断、修理を行なうといった役割までも果たした。ATOM隊は現在でも存続し、シャープの液晶テレビ事業の立ち上げでも、重要な役割を果たした。

 1954年にはテレビの新工場として、大阪・田辺工場を新設。大小2つの環流型コンベアを組み合わせたエンドレスコンベアにより、配線、組立、梱包、出荷までの一貫した流れ作業体制を確立。少ないスペースでも効率的に運用できる先進的な工場施設は、2分間に1台というテレビ生産で体制を実現。コスト削減とともに、その後の神武景気によるテレビ需要の拡大にも十分対応することができ、1956年にはシャープテレビの月産台数は6,000台の規模にまで拡大した。

 神武景気のきっかけとなった大豊作で、農村にも古い茅葺き屋根の上にもアンテナが並び始めた。徳次氏はこの様子を見て、「テレビが一家に一台という私の念願もあながち夢ではない」――そう確信したという。

白黒テレビの発売から10年目を迎えたシャープの広告

 1955年のデータによると国内テレビ市場におけるシャープのシェアは24.5%。パナソニック(当時・松下電器産業)の16.9%を抑えて、堂々トップシェアを獲得していたのだ。

 一方で同社は、家電製品の生産も開始することになる。1956年には大阪・平野の工場内に洗濯機の組立工程を設置。翌年には、平野第2工場を完成させ、白物家電の増産を図っていった。さらに1958年には販売体制強化のために「シャープフレンドショップ」を結成。全国の地域販売店を通じたシャープ製品の販売体制を構築した。

 こうした家電製品への展開は、1959年の家電製品の専門工場である八尾工場の稼働でさらに拡大する。ここでは、クーラー、冷蔵庫、扇風機、洗濯機、暖房機などの生産を行なうとともに、東洋一といわれたメッキ工場、プラスチック成型工場などを併設した一大拠点となった。すべての家電製品を一カ所で作る総合工場の稼働は、電機業界における大きな出来事として記されている。


当時最先端の生産設備とされた八尾工場の洗濯機生産ライン1958年に発売された冷蔵庫。価格は68,000円冷蔵庫にはこんなシャープのロゴがつけられていた

 また、この工場からはプラスチック羽根の扇風機や庫内を広げた超小型2極コンプレッサーの冷蔵庫などが誕生している。


口癖は「他社に真似される商品を作れ」

 同社は、1956年に大阪・田辺に新たな本社社屋を建設。1960年には、本社工場となる田辺工場をカラーテレビ生産の本拠地として量産を開始。その後もテレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器に対する需要の拡大とともに、業績を拡大していった。

シャープが開発した国産第1号電子レンジ

 国産第1号の電子レンジを開発したのもシャープである。1962年に発売した第1号電子レンジの開発には、のちに電卓事業で手腕を発揮することになる佐々木正氏が関わっている。佐々木氏は、ソフトバンクの孫正義社長が、米カルフォルニア大学バークレー校に在学中に開発した電子翻訳機の技術を買い取り、それが孫氏の事業のスタート資金となっている。佐々木氏は、シャープを引退後も、ソフトバンクの顧問を務めるなどの孫社長と深い関係を持っている。

 佐々木氏が当時、在籍していたのは神戸工業である。同社では、防衛庁(当時)からの依頼で、レーダーなどに使用する大出力の特殊真空管「クライストロン」を生産していた。この技術を応用して、開発したのがマグネトロンであり、その応用分野の1つとなったのが「火を使わない夢の調理器」となる電子レンジであった。

 取締役でありこの事業のリーダーを務めていた佐々木氏は、販売力を持たない神戸工業はマグネトロンだけを供給し、電子レンジの生産は他社に委ねた方が最適であると判断し、真っ先に浮かんだシャープに、この話を持ち込んだ。

 シャープの経営陣は、瞬く間に決断し、その後、日本初の電子レンジの開発に成功することになる。

 まずは業務用としてレストランなどを中心に販売したが、1966年には家庭用電子レンジを発売。ムラなく焼き上がるターンテーブルの採用や、調理が終わると「チン」となる仕組みを採用したのはシャープが最初であった。いまや一般的に使われる「チンする」という言葉は、実は、シャープの電子レンジを発端としたものだった。

 そして、シャープは、その特許を有償で公開することを決断する。そのとき、徳次氏は次のように語ったという。

 「このパテント(特許)を大いに使ってもらったらいい。それで負けるような商品しか作れないのならば、こっちの力がないということだ」

 徳次氏は、「他社に真似される商品をつくれ」というのが口癖だ。この決断にも、同じ姿勢が貫かれている。

 実は、この時期を前後して、ソニーの創業者である井深大氏が、早川徳次氏を訪ねたというエピソードがある。

 1950年に第1号のテープレコーダーを発売したソニー(当時は東京通信工業)は、その後、1日5台のテープレコーダーしか生産できず、それが事業拡大の足かせとなっていた。これを打開するために、量産技術を学びに徳次氏のもとを訪れたのだ。

 井深氏のストレートな提案に徳次氏は、工場の様子をすべて公開。ソニーは、テープレコーダーの特許やノウハウをシャープに提供したという。

 事業の拡大に伴って、名実ともに総合家電メーカーへの道を歩み始めた同社は、1970年、早川電機工業株式会社から、シャープ株式会社に社名を変更。社名とブランドを一本化するとともに、将来のエレクトロニクスメーカーへの発展を見据えて、「電機」という言葉を外したのだ。

シャープへの社名変更の看板付け替え作業の様子早川徳次氏(右)と佐伯旭氏(左)

 さらに、同年9月、創業以来58年間に渡り社長を務めた早川徳次氏が会長に就任。社長には佐伯旭専務取締役が就任した。佐伯氏は1959年に代表取締役専務に就任して以来、いわば社長代行としての役割を担い続けてきた経理畑出身の人物。まさに満を持しての社長登板だった。(つづく)





2010年1月14日 00:00