1961年1月の経営方針発表会で、松下幸之助氏は社長を退任し、会長に退くことを発表した。
一度壇上を降りた後に、また改めて壇上にのぼり、まるで思い出したかのように、こう切り出した。
「5カ年計画が無事終了し、私も65歳になった。本来、数え年の50歳で、陽洲という号を用いて引退しようと考えていたが、戦時中で実行できず、その後、会社の再建に取り組んできた。いろいろと考えた末、この際、社長を退き、会長として後方から見守っていきたい」
1956年からスタートした5カ年計画では、1955年には220億円だった売上高を、1960年には800億円に拡大。従業員数を1万1,000人から、1万8,000人に増やし、資本金も30億円から100億円に引き上げるというものだった。
まだ民間企業でこうした長期計画を発表する例はなく、しかもその目標値はあまりにも大きなものだった。
この計画は、ほぼ4年で達成。最終年度には、年商1,054億円、従業員数2万8,000人、資本金150億円と、計画をさらに上回るものとなった。
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1962年に、松下幸之助氏が表紙を飾った米タイム誌
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幸之助氏は、徐々に「経営の神様」と呼ばれるようになる。
海外から相次ぐ賓客を迎えるようになり、1962年には、米タイム誌に表紙と5ページに渡って、幸之助氏の経歴や思想、経営理念、パナソニックの躍進などが紹介された。それまでに日本人が同誌の表紙を飾ったのは美智子妃殿下などごくわずかな例しかない。
松下幸之助氏を訪ねた数々の賓客のなかで、その後のパナソニックの事業発展に大きく関係したのが、1978年に来日した中国最高実力者であるトウ小平氏だ。ブラウン管テレビの生産を行なっていた茨木工場を訪問したトウ小平氏は、「技術・経営面での援助をお願いしたい」と要請。それに対して、幸之助氏は間髪入れずに「なんぼでもお手伝いします」と承諾。
1979年、1980年には、幸之助氏が2回に渡り訪中し、トウ小平氏と会談し、87年には、北京市市内に合弁でブラウン管製造会社を設立して、現在でもブラウン管の主力工場として稼働している。
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1979年に中国を訪問した際に、トウ小平氏と会談する松下幸之助氏(右)
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中国・北京のブラウン管生産拠点「北京・松下彩色顕像管有限公司(BMCC)」
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北京市と結んだ20年間の契約を更新し、現在でも年間900万台のブラウン管生産を行なう
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同工場の設立当初には、250人の中国人労働者を、平均5.5カ月間に渡り、日本でライン実習させて、モノづくりの技術を修得させた。中国への技術流出なども懸念されたが、幸之助氏は、モノを作る前に、人を育てるということを、ここでも実践し、スムーズな工場稼働へとつなげている。
また、94年には、大連に中国華録・松下電子信息有限公司を、中国政府が出資する会社と合弁で設立。現在では、レコーダー生産の重要拠点となっているほか、2005年には、杭州の27万平方mにのぼる敷地に松下杭州工業団地を建設。洗濯機をはじめとする白物家電の一大生産拠点を稼働させている。
長年に渡る中国政府との絆によって、パナソニックは、現在でも中国国内に81社の関連会社、10万人の従業員が働いており、同社の事業にとって欠かすことのできない国となっている。
なお、トウ小平氏と幸之助氏の茨木工場での会談のビデオは、松下幸之助歴史館で常時見ることができる。
● ひらめきとリーダーシップを発揮した決断能力
幸之助氏は、会長に退いても、経営への関心は強かった。
1964年の熱海会談後には、営業本部長に復帰し、再度、陣頭指揮を振ったほか、社長時代に発表した週5日制を、5年かけて実現。大型コンピュータ事業からの撤退も決断した。さらに、1973年に相談役に退いたのちにも、ビデオレコーダーにおけるVHS方式の採用決定に強く関与するなど、重要な事項では幸之助氏に決断が求められた。
現在では、多くの企業が実行している週5日制を大手企業で導入したのはパソナニックが第一号。導入した1965年は、東京オリンピック後の反動で景気が低迷していたが、それでもパナソニックは導入に踏み切った。
「一日教養、一日休養」のスローガンのもとに実施された週5日制は、従業員に対する豊かな生活の実現だけでなく、企業の生産性向上、逼迫していた人員確保という点でも効果をもたらした。
とくに社員一人あたりの生産性向上の実践に、この制度は大きなトリガーとなったことは間違いない。
また、大型コンピュータ事業からの撤退は、幸之助氏のひらめきによるもの。5年間に渡り、研究を続け、通産省(現経済産業省)の指導のもと、国産コンピュータメーカー7社(現在はパナソニックを除く6社)が出資して設立した日本電子計算機株式会社に2億円出資したのをはじめ、すでに多額の投資を行なっていたが、これをあっさりと諦め、撤退した。
ことの発端は、米チェース・マンハッタン銀行の副頭取との会談だ。このなかで、「日本は7社(富士通、NEC、日立、東芝、沖電気、三菱電機、パナソニック)で大型コンピュータを作るというが、それは多過ぎないか」との意見が出た。
これを聞いた幸之助氏は、「総合メーカーが片手間にやるよりも、2、3の専門メーカーがやるほうが電算機事業のためにもよい」と決断。大型コンピュータ事業への進出を中止した。その後、長年に渡り、コンピュータ事業では後塵を拝することになるが、現在でも自社開発を貫いている大型コンピュータメーカーが、富士通、NECの2社に集約されていることを考えると、早期の撤退決断は正しかったともいえよう。
● 炎天下に2時間並んで「百聞は一験にしかず」を貫き通す
幸之助氏は、「現場」にこだわり続けた経営者でもあった。
それについては、こんなエピソードがある。
1970年、大阪・吹田市で開かれた日本万博博覧会(大阪万博)に、パナソニックは、「松下館」を出展した。
奈良・中宮寺の御堂をモチーフに、天平時代の建築様式を取り入れた建物を建設。約1万本の孟宗竹を巡らせ、前棟には5,000年後の未来に「いま」を伝えるタイムカプセルEXPO'70を展示。後棟にはお茶室を設けて、日本の良さを味わってもらうようにした。前衛的な建築が多いなかで、日本の美しさにこだわった松下館には、3月15日から9月13日までの会期中、約760万人が来館した。
幸之助氏自身も、開館式でテープカットを行ない、松下館の完成を祝った。
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大阪万博の松下館のテープカツトに臨む幸之助氏
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大阪万博の松下館の模型
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ある夏の日、松下館の列を監視カメラで見ていた担当者が、幸之助氏が長蛇の列に並んでいるのを発見して、声をあげた。すぐに、幸之助氏のところに飛んでいき、「どうぞ通用口からお入りください」と勧めた。ところが、幸之助氏は、「いや、大丈夫。どれぐらいの時間で入れるのかを計っているのです」と、そのまま列に並び続けたのだ。
75歳だった幸之助氏は、炎天下のなか、2時間も並び続けた。入口まできた幸之助氏は、「日陰のところがほとんどありません。紙の帽子を作って、並んでいる人に渡しなさい」と指示をした。
その後、松下館では帽子が配られ、その帽子に書かれた松下館の文字を見た人が、それを知って松下館を訪れるという相乗効果を生んだのだ。
自らが足を運んで、一般の人と同じ目線で体験するのが幸之助氏の手法だ。
「百聞は一見にしかず」という言葉を、幸之助氏は、「百聞は一験にしかず」と呼び、現場で体験する重要性を訴えていた。これも、幸之助氏が現場を重視する姿勢の表れだ。
大坪文雄社長は、今年1月9日に開催した経営方針説明会で、2009年の取り組みにおいて、「現場、現物、現人」にこだわり、見る、触れる、聞く経営を行なうことを、社員と自らに徹底する姿勢を見せた。幸之助氏の姿勢はいまに直結している。
● 消えることのない商品へのこだわり
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商品に囲まれた幸之助氏。生涯に渡って商品にこだわり続けた
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そして、幸之助氏は、常に、商品にこだわりつづけた経営者だった。
幸之助氏と接したことがあるパナソニックのOBは、こんな話をしてくれた。
「事業部社員一同で、完成した第1号商品を持って、創業者のもとを訪れたことがあった。そのとき、自分の子供を見るような温かい目で、商品を撫でながら、『本当に、いいものを作ってくれたな』と評価していただいた。それだけでもうれしいのに、秘書に声をかけて財布を取りにいかせ、『これ買うわ、なんぼや』と、言っていただいた。全員が、これからも創業者に評価してもらうために、もっといい商品を作るぞ、という気持ちになったのは当然です」
また、ある時は、完成した商品を見て、その商品に高い評価を下しながらも、「次はもっといい商品を作ってくれ」と駄目出しとも取れる指示を出す。完成した商品に満足しては進化がないことを教えるために、あえて厳しい言葉を投げかけるのである。
一方で、中途半端な商品には容赦なく叱った。
先のパナソニックOBは、こう語る。
「上司について、商品説明に訪れた際のことです。説明のために入室するのは上司一人。なにかあったときに対応できるように、数人の社員が部屋の外で待機していました。ところが、この商品の出来映えに不満を持った創業者は、すごい剣幕で上司を怒鳴りつけた。その声が廊下まで響くんです。とにかく、すごい声だったことを覚えています。部屋から出てきた上司は、その声に思わず失禁していました」
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幸之助氏が三日三晩かかって考えたナショナルランプの三行広告
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また、「宣伝は社長自らの仕事」として、1945年に宣伝部を設置して自ら宣伝部長を兼務、56年のPR本部でも本部長を兼務して、多くの広告作品を残している。これも、「良品は自ら声を放たず、従って宣伝が必要」との想いからであり、まさに商品に自らこだわる姿勢の表れだ。
パナソニック最初の広告コピーである、1927年のナショナルランプの「買って安心・使って徳用」は、幸之助氏が三日三晩かかって考案したものであり、商品への想いをこの言葉に込めている。
こうした数々のエピソードからもわかるように、商品へのこだわりは、晩年になっても衰えることはなかったのだ。
● 創業者の存在が根強く残っている企業に
1989年4月27日午前10時6分。春にひいた風邪をこじらせ、気管支肺炎を起こした松下幸之助氏は、94歳の生涯に幕を閉じた。
この年、1月に昭和天皇が崩御し、4月に松下幸之助氏が逝去。そして、6月に美空ひばりさんが亡くなり、まさに、「昭和の時代が終わった」とされた。
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94歳で逝去した松下幸之助氏。世界各国の数々の経営者に影響を与えた
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松下幸之助氏の逝去を報道する各紙。号外が発行され、テレビでは特別番組が放映された
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松下幸之助氏の手形
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2006年2月、社長のバトンを大坪文雄氏に託すことを発表した中村邦夫会長は、その会見で、大規模な構造改革を推進するなかで、壁にぶつかるたびに、「創業者ならば、どんな決断をするかということに、必ず立ち返った。創業者が残してくれた言葉を、1つ1つ大事にして、改革に取り組むことが必要であると考えて続けてきた」とコメントした。
さらに、「創業者が逝去して17年(2006年当時)が経つ。だがパナソニックは、創業者の存在がまだクリアに残っている企業である。創業者の経営理念は、全社員が一致してよりどころにしているものだと確信している」と続けた。
中村改革において、「創業者の経営理念以外、聖域はない」としてきた意味がここにある。
これは大坪文雄社長も同じだ。大坪社長が自らの経営手法として掲げる「衆知を集めた全員経営」も、幸之助氏の言葉である。
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幸之助氏が残した代表的な言葉ともいえる「道」。歴史館の入口に展示されている
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今でも、パナソニックは、松下幸之助氏が掲げた経営理念、そして、幸之助氏の言葉を、全社員共通の拠り所として、実践し続けている。
松下幸之助歴史館は、そうした幸之助氏の強い思いを、後世に伝える役割を担い、パナソニックの幹部、社員にとっても原点に立ち戻る場となっている。
中村邦夫会長、大坪文雄社長も、折に触れて、松下幸之助歴史館を訪問していることからも、それは証明されよう。(終)
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パナソニック社名変更関連記事
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2009/01/16 00:01
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