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【短期集中連載】
パナソニックの経営理念を歴史館に見る その2

~松下幸之助氏の誕生から会社設立まで
Reported by 大河原 克行

 パナソニックの創業者である松下幸之助氏は、1894年11月27日、和歌山県海草郡和佐村字千旦ノ木の農家に、女5人、男3人の8人兄弟の末っ子として生まれた。

 生まれた当時は、田畑61ヘクタールを持ち、長屋門があるほどの立派な農家だったが、幸之助氏が4歳のとき、父・政楠氏が米相場で失敗し、一家は困窮に陥った。そのため、幸之助氏は9歳のときに、単身大阪に出て、丁稚奉公を始めることになったのだ。1904年(明治37年)のことである。あと3カ月で尋常小学校を卒業という時期に奉公に出たことで、幸之助氏の最終学歴は尋常小学校4年中退ということになっている。


五代自転車店の店主夫人との写真。全員との記念写真のときに、幸之助氏が用事で外出。間に合わなかった幸之助氏が寂しそうにしているのを、夫人が気がつき撮影したという逸話も
 最初に丁稚奉公したのが、宮田火鉢店。だが、奉公から3カ月後に廃業したことで、翌年、大阪・船場の五代自転車店に奉公することになった。

 後年、幸之助氏がこの五代自転車店での奉公時代に、商人としての基本を身につけたと述懐している。幸之助氏の商人として原点は、この五代自転車店にある。

 得意先の方角に足を向けて寝ないことなど、お客様を大切にする心を学んだのもこのときだ。

 当時のエピソードはいくつもある。

 自転車の修理待ちのお客から、幸之助氏はよくタバコを買いに走らされた。それが多いため、幸之助氏は自分の給金のなかから、あらかじめタバコをまとめて買って置くことにした。それは、客を待たせない、自分が買いにいく時間を節約できるというメリットのほか、20箱まとめて購入すると1箱おまけについてくるため、それを自分の利益にできるというメリットがあったからだ。まさに商売の基本ともいえるものだ。

 だが、これを見ていた他の丁稚奉公から、不満が集まった。

 「あいつ一人が儲けている」

 この時、幸之助氏は、世間の物事の捉え方というものも学んだ。得た利益から他の丁稚に少しでも驕ってやれば、こんな不満は出なかっただろう。一人で儲けていることの風当たりの強さをこのときに知ったのだ。

 この教訓は、その後の経営にも生かされている。のちに、ラジオの特許を買収し、これを無償で公開したというのも、このときの経験が生かされたものではないだろうか。

 こうした体験の連続が、五代自転車店で得たものだったといえる。

 「こうきちどん」と呼ばれた5年間に渡る丁稚奉公ののち、幸之助氏は大阪電灯に入社する。いまの関西電力である。転職の理由は、市内を走る電車を見て、電気によって時代が変わると考えたことにあったという。

 転職を決意した幸之助氏は、15歳のとき(1910年)に大阪電灯幸町営業所の内線係見習工に採用された。入社後は、関西商工学校夜学部予科に通いながら勉学にも勤しみ、20歳で井植むめのさんと結婚。入社から6年後には、工事担当者から検査員に昇進し、電気工事などに従事する日々を過ごした。検査員とは、電気工事に携わる従業員にとっては憧れの的ともいえる職種。出世は早かったともいえる。

 その間、幸之助氏は、ソケットの改良にも取り組んでおり、試作品を作って上司に提案していたという。

 しかし、試作品は上司に受け入れられず、自分でソケットを作りたいと独立を決意。22歳のとき(1917年)に大阪電灯を退社し、ソケットの製造、販売を開始した。


大阪電灯で職工となった際の辞令
当時の給与明細。こうした資料を保存していたことからも幸之助氏の几帳面さがわかる
大阪電灯を退職した際の辞令

創業当時の若き松下幸之助氏
 幸之助氏が独立を急いだ背景には、自身が病弱であったことが見逃せない。将来の方向性を早い段階で決めたいという意識が働いていたからだ。

 実際、20代前半には、肺尖カタルを患い、その後も度々病に倒れ、寝込むというようなこともあったという。94歳という長寿であったこと、パナソニックをこれだけの企業に育て上げた人力から、病弱とは縁遠いように見えるが、実際にはそうではなかった。ちなみに、幸之助氏が26歳のときには、8人兄弟のうち、幸之助氏を除いて全員が死去。両親もすでに死去していた。

 「病弱と寿命は違う。病と仲良く付き合うことが大切」と、幸之助氏は語っていたという。


扇風機の碍盤。左が従来の陶器製。右が幸之助氏が生産した練物による碍盤
 ところで、自信を持って開発したソケットを武器に、独立した幸之助氏だったが、残念ながらソケットは売れずに、むめの夫人が質屋に通うほどの困窮ぶりに陥った。その時、困窮を救ったのが、川北電気から受けた扇風機の碍盤製造の仕事だった。碍盤とは、扇風機の速度調整スイッチを取り付ける絶縁盤。陶器製が主流だったときに、幸之助氏はソケットで活用していた練物を利用することで、1,000枚もの碍盤製造を受注することに成功。さらに、その後も大量の受注を得たことで、経営が波に乗るようになったのだ。

 この成功を受けて、1918年3月7日、松下電気器具製作所を設立する。このタイミングが、世界企業・パナソニックのスタートだといっていい。

 創業メンバーは、幸之助氏と妻むめのさん、そして、むめのさんの実弟であり、のちに三洋電機を創業する当時15歳の井植歳男氏。また、当時の社員として、身重だった女性が一人参加していた逸話も伝えられている。この方は、繁盛さんという方で、「縁起がいい名前だから」という理由で、むめのさんが採用したとのことだ。


会社創業後の記念写真。後列左が幸之助氏。その隣が井植歳男氏。後列右端がむめのさん 住み込みで働く従業員のための給食に使われた鍋

 松下電気器具製作所のスタートを支えたのは、扇風機の碍盤製造であったが、その一方で、幸之助氏は、ソケットの開発に没頭することになる。

 その結果、開発したのが改良アタッチメントプラグである。品質の高い練物を使用し、ネジ込み部分に古い電球の口金を再生して使用することで、精度の高いものを簡単に作れるように工夫したものだ。既存のプラグよりも3~5割も安く製品化できたこともヒットの要因となった。

 そして、創業期のもう1つのヒット商品が、「2股ソケット」(二灯用クラスター)である。


ヒット商品となった改良アタッチメントプラグ
2股ソケットは、幸之助氏の代表的アイデア商品
当時のソケット商品群

これがソケットや碍盤に利用した練物。コーパル樹脂、クレー粉、タール、カーボン、石綿を混ぜて作る 奥の釜で材料を煮て、液状になったものを手前の足踏み機でつく

その後、左の恒温釜の上で、冷えて固まらないように練る作業を行なう 最後に型押機を使って成型する。2階立ての1階部分3部屋を工場としていた

 家庭での電源は、コンセントではなく、電灯ソケットから確保していた時代。2股ソケットは、天井からぶら下がる1つのソケットから2つの電源を確保できるというアイデア商品だ。この2つの商品によって、パナソニックは、成長に向けた地盤を作ることになる。

 だが、いつまでも、それがうまく行くわけではなかった。関東のメーカーの値下げ攻勢によって、危機に直面することになるのだ。これを救ったのは、問屋と直接取引。それまでは総代理店に販売を任せていたが、自ら販路を拡大する手法を取ることで、商品の販売量を拡大することに成功し、危機を脱することができたという。


砲弾型電池式ランプ。いいものは売れると自信を持った商品
 ソケットの次に、ヒットした商品が「砲弾型電池式ランプ」であった。

 当時、自転車用のランプは、ローソクあるいは石油ランプがほとんどであった。また、電池式のものは、わずか2~3時間しかもたずに故障も多かった。

 五代自転車店で丁稚奉公していた経験もあり、自転車には強い関心を持っていた幸之助氏は、半年間に渡って、研究開発を続けた結果、従来のものよりも10倍以上も長持ちするランプを作ることができた。実に、30~40時間も利用できるランプなのだ。

 しかし、ここでも問題が出た。商品の品質は高いのだが、問屋や自転車店が電池式は使いものにならないという先入観があり、取り扱ってくれないのだ。商品の良さをいくら説明しても、まったく売れないという日々が続いた。

 幸之助氏は、ここで思い切った手段に打って出た。販売店に、商品を無償で置いて回ったのだ。

 もちろん、資金的に余力があるわけではない。これが失敗すれば、会社は倒産するという大きな賭けでもあった。この決断を後押ししたのが「いいものは必ず売れる」という幸之助氏の信念であったといえよう。

 結果は幸之助氏の思惑通りになった。実際に使ってみて品質の良さを理解した販売店から注文が入り始めたのだ。

 その後、砲弾型ランプに関しては、パナソニックは製造に特化し、「エキセル」の商標で、山本商店に販売を一任していた。その契約は、新たに開発していた角型ランプについても有効であったが、ランプを短期的な人気商品と捉えていた山本商店と、実用的な永続型商品と捉えていたパナソニックとの間で意見が対立。幸之助氏が、角型ランプは自身の手で売ってみたいという想いもあり、当時の金額で1万円の大金を支払って、販売権を買い戻した。

 販売権を買い戻した幸之助氏は、角型ランプの商標についても検討をはじめた。ある日、新聞を見ていたところ、「インターナショナル」という文字が目に止まり、その言葉を辞書で調べてみた。

 インターナショナルには「国際的な」という意味があり、ナショナルには「国民の」という意味があることがわかった。そこで、「ナショナル」という商標を付けて、「国民の必需品、実用品にする」という思いを込めた。まさに商標権を買い戻すきっかけになった「ランプは実用的商品」という意味を持った商標だったのだ。


当初は山本商店が全国総販売元としてエキセルランプとして販売した
ナショナルブランド第1号となった角型ランプ
当時、使用していた「M矢」のマーク。京都の石清水八幡宮の破魔矢と、松下の頭文字のMを組み合わせたもの。障害を突破し、目標に向かって突き進むという意味が込められたという

角型ランプ
裏側にはナショナルのロゴが入る
当時のロゴ

 その後、日本を代表とする家電商品のブランドとなり、81年間続くことなる「ナショナル」の第1号商品は、実は、この角型ランプだったのである。

 角型ランプが完成したのは、1927年のこと。販売店には、約1万個の見本品を無償で提供。品質の高さが認識されるとともに、自転車に付けて利用できるだけでなく、手提げ型の懐中電灯としても利用できる利便性に評価が集まり、1年後には、月3万個を売る大ヒット商品となったのだ。


ナショナルの商標を登録。その後、81年に渡って日本の家電商品の代表的ブランドになる
当時のナショナルランプの看板
ナショナルランプの新聞広告

初の家電商品となったスーパーアイロン
 その年、パナソニックは、スーパーアイロンと呼ばれる商品を開発した。

 その後、技術部門を長年に渡り率いることになる中尾哲二郎氏(井植歳男氏の妹の夫でもある)が入社したこともあり、中尾氏を中心に電熱部を設置。従来にはないヒーターを鉄板に挟んだアイロンを完成させ、これを販売した。

 当時のアイロンは4~5円。それまでに業界全体で月1万台が売れていたという。幸之助氏は、パナソニックだけで月1万台のアイロンを販売すると宣言。量産効果を背景に、3円20銭の価格設定で売り出した。

 まわりはそれだけの需要があるかどうかを心配したが、幸之助氏は、「手頃な値段で品質がよければ、多くの人に買っていただけ、喜んでもらえる」と懸念を一蹴。結果は、幸之助氏の予想通り、好調な売れ行きを見せた。

 大量生産方式は、フォードの手法をヒントにしたもので、低価格化の手法として、その後数多くの商品で用いることになる。

 ちなみに、このアイロンは当時の商工省から国産優良品に指定されている。

 続いて投入したのが電気コタツだ。電気コタツといっても、現在のようにテーブルの下に電熱部がついたものではなく、寝る際にお布団の中に入れて使うタイプのものだ。

 当時の電気コタツは、熱くなってしまい、利用者が火傷をしたり、煙が出たりといったものが目立っていた。

 そこで、パナソニックでは、日本で初めて新開発のサーモスタットを採用。温度が上昇すると、スイッチが切れて、火傷をしないように調整できる仕組みとした。また、コタツ上部を曲線形状とし、足などをひっかけないようにした。いまでいう、「UD(ユニバーサルデザイン)」の走りといっていいだろう。


ユニバーサルデザインともいえる上部を曲線にした電気コタツ
電気コタツのナショナルのロゴ
電気コタツで初めて採用されたサーモスタットは、その後改良され、多く商品に採用された

 これも従来商品の約半値で販売。品質と購入しやすい価格が相まって、ヒット商品となった。

 このようにパナソニックの商品は、品質と価格の両立を前提としていた。それは、多くの人に使ってもらえる商品にしたいという想いが込められていたからだ。


創業初期は、ランプやアイロンで販路を拡大していった
当時の商品を紹介したカタログ

 こうした考え方は、1929年に制定し、現在でも朝会で唱和されている綱領、信条や、1932年の創業命知へとつながっていくことになる。

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URL
  パナソニック株式会社
  http://panasonic.co.jp/index3.html
  パナソニック松下幸之助歴史館
  http://www.panasonic.co.jp/rekishikan/
  パナソニック社名変更関連記事リンク集
  http://kaden.watch.impress.co.jp/static/link/pana.htm

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2009/01/08 00:00

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