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【短期集中連載】
パナソニックの経営理念を歴史館に見る その5

~生産半減、初荷、熱海会談――不況下のパナソニックの乗り切り方
Reported by 大河原 克行

 パナソニックは、これまでにいくどとなく、経済環境が悪化したなかでの経営を余儀なくされている。

 そのたびに、様々な手法を用いて乗り切ってきた。


1933年に大阪・門真に本社・工場を移転した
 最初の経済環境悪化での経営は、大阪・門真に本店・工場を移転した1933年のことだ。

 同年7月から政府が打ち出した緊縮政策による国内の景気後退に加えて、10月には米国においてブラックチューズデーと呼ばれるニューヨーク株式市場の株価大暴落を発端とした世界恐慌が勃発。日本経済も大きな影響を受けることになった。

 業績悪化を背景に、多くの企業が工場閉鎖や人員削減に乗り出し、失業者が街に溢れ出すという状況。パナソニックも置かれた立場は同じで、生き残りに向けた打開策の選択が求められていた。

 当時、病気静養中だった幸之助氏は、幹部社員からの進言を聞いた。

 「倉庫は在庫でいっぱいです。従業員を半減し、この窮状を打開すべきです」

 ところが、幸之助氏にはまったく別のことがひらめいた。

 「生産は半減するが、従業員は解雇してはならない。給与も全額支給しつづける。工場は半日勤務として、店員は休日を返上し、在庫の販売に傾注してほしい」

 解雇を恐れていた従業員は、幸之助氏のこの方針を聞いて歓声をあげ、社内には一致団結の姿が見られ始めたという。その結果、わずか2カ月後には、在庫が一掃され、工場はフル生産を行なわなくてはならない状況になった。

 景気づけに「初荷」を始めたのもこの時期だ。1964年まで続いた初荷は、全員が法被姿で、商品を山積みにし、幟を立てたトラックに乗り、街中を行進。販売店の店先で荷物を下ろして、初荷の挨拶状を読み上げ、三三七拍子を行なうというもの。長年に渡り、パナソニックの名物行事と呼ばれ、「縁起商売」として話題となった。


1950年 初めての家電販売会社 ナショナルショップに置かれていたナショナル坊や

 また、当時、幸之助氏は、「いまこそ需要を喚起するために、分に応じてモノを買うべき。それによって、新たな生産も起こり、不況も解消される」として、自家用車を購入している。自ら率先して消費活動を行なうことで、景気回復への弾みにしようという姿勢があったのだ。ちなみに、購入した自動車のナンバーは「59」であったという。


その後建設した現在の本社。1961年当時の写真
2008年に社名変更後のパナソニック本社の様子

嘆願書に救われた幸之助氏

 戦後の復興期もパナソニックにとっては、大きな転換期だった。

 大阪、東京など32カ所の工場、出張所などを被災しながらも、本社と主力工場が残ったパナソニックは、終戦翌日には民需産業へ復帰する方針を発表。その後、「生産こそ復興の基盤である。我が社の伝統精神を振起し、国家再建と文化宣揚に尽くそう」とした。

 だが、パナソニックは財閥家族の指定、賠償工場の指定など7つの制限を受け、会社解体の危機に直面する。一代で築き上げたパナソニックは、財閥ではないとする幸之助氏は4年間、50回以上に渡り、GHQ(連合国軍総司令部)に対して抗議した結果、1950年にはそれがほとんど解除された。

 とくに、旧軍需会社の役員となっていた幸之助氏の公職追放の指定が解除されたのは異例だった。実は、この決定を後押ししたのが、1946年に結成された労働組合の組織員や代理店などによって作成された1万5,000通からなる嘆願書だった。幸之助氏が公職追放となり、会社再建の支柱を失うことを懸念したパナソニックのあらゆる関係者が、自主的に活動を開始したのだ。

 当時、経営者の戦争責任を追求する労働組合が多かったなかで、パナソニックはいわば逆の活動となっていた。この動きが、異例の追放指定解除措置につながっている。

 従業員、関係会社、取引先を大切にすることを積み重ねてきたパナソニック、松下幸之助氏ならではの逸話である。


不況から世界に目を向けた経営戦略

 だが、そのパナソニックも、戦後のデフレ恐慌のなかで、1950年には、従業員4,438人の中から、567人の待命退職者を出すことになる。社員の13%に当たる大規模な人員削減だ。

 資本金4,630万円のパナソニックが抱えていたのは、4億円の借入金、3億円の支払手形および未払金。そして、給与の分割払いや賞与の支給停止も余儀なくされる状況。物品税の滞納王としても報道される始末だった。

 3年間に渡り、赤字が続いていた状況に幸之助氏は、「われわれが産業人であるならば、これだけの人の働きの成果を黒字に持っていき、国家の繁栄、従業員の生活向上になるような成果ある仕事をしなければならない。そうでなければあって甲斐ない存在である。あって甲斐ない存在であれば、松下電器は解散してもよい思う」と語り、社員に奮起を促した。

 この経営危機を救ったのは、1950年の朝鮮戦争の勃発であった。国連軍の物資需要という特需が発生したのだ。これにいち早く着目した幸之助氏は、生産体制を整え、再建に乗り出した。

 この勢いを得て、1953年には中央研究所を設立し、技術開発、商品開発だけでなく、生産設備の最新オートメーション化などの研究もここで行ない、「優良品を生産するために資金が許す限り、生産整備を新鋭化する」との方針を打ち出した。


1951年には、3カ月に渡り、米国を旅行して、その先進ぶりに影響を受けた
 また、1951年1月の経営方針発表会では、「日本民族の良さを生かしつつも、世界的な観点から経営活動をしなければならない。わが社は今日から再び開業する」として、米国に3カ月間の旅行に旅立ち、自ら米国の事情を見聞して歩いた。

 さらに、同年中には再び渡米し、欧州を廻って帰国する旅にも出ている。世界的な観点での経営判断手法の修得、先進技術動向の掌握、海外の有力な提携先の模索などが、この2つの旅行の狙いだ。これは、後のフィリップス社との提携にもつながった。

 海外に視野を向け、新たな市場に目を向けるという「視点の変化」が、この時の復活の原動力となっている。


アメリカに続いてヨーロッパにも訪問。海外の市場に目を向けるたことが復活の原動力となった(写真は1951年にアメリカで撮影したもの)
 なお、欧米を訪問した幸之助氏は、1953年に予定されていた創業35周年記念式典を「松下電器は大過なく発展しているが、欧米の発展ぶりを見聞し、日本の姿を思うと、手放しの楽観は許されない。日本の再建、業界の繁栄、松下電器の発展のために努力した上で、祝賀しあいたい」として、2年間延期し、1955年に開催している。

 最初に渡米した際に、ラジオを工員2日分の給与で購入できる米国に対して、日本では1カ月半もの給与が必要であることなどに、生活の豊かさに大きな差を感じたのが印象深く、その格差是正に幸之助氏は邁進していたのだ。

 なお、幸之助氏は、戦時中には、従業員とその家族を対象に、「明朗な心の糧が必要」として、8日間も劇場を借りて社内演芸大会を開催し、志気向上に努めるといった驚くべき手も手を打っていた。


販売店、代理店と徹底的に話し合った伝説の「熱海会談」

1964年7月9日から3日間に渡り、熱海のニューフジヤホテルで開催された熱海会談の様子
 パナソニックの歴史のなかで、語り継がれているのが1964年の熱海会談である。

 同年の東京オリンピック開催を前にした長年に渡る高度成長の反動が出始めるとともに、主要商品の普及一巡、金融引き締めなどが重なり、需要停滞、生産設備の過剰といった景気低迷が表面化してきた時期。パナソニックも同年度上期の業績は減収減益となり、販売会社、代理店も販売不振を背景に赤字に陥る例が顕著に見られ始めた。

 事態を重く見た幸之助氏は、全国の販売会社、代理店の社長を静岡県熱海市のニューフジヤホテルに集め、懇談会を開いた。これが「熱海会談」である。

 会長に退いていた幸之助氏は、パナソニックからの押し込み販売によって在庫を抱え、苦労している販売店の現状を知り、自ら召集をかけたのだ。

 前日に熱海入りした幸之助氏は、会場を見て、変更を指示した。

 「机を取り払ってくれ」、「参加者の顔がひとりひとり見えるように椅子を交互に置いてほしい」、「雛壇をもっと高い位置にしてほしい」――

 残されている写真を見ると、幸之助氏が話している演台の位置は確かに高い。関係者によると、頭のすぐ上は天井だったという。そして、ひとりひとりの椅子の位置も交互だ。

 この指示は、徹底的に議論をするという幸之助氏の姿勢の表れだったといえる。

 事実、熱海会談は紛糾した。

 率直な意見を求めた幸之助氏の言葉に、参加者のひとりがパナソニックへの不満を語り出すと、まさに堰を切ったように批判、苦情、要望の声があがりだしたのだ。

 この時、順調に収益をあげていたのは参加170社のうち、20数社。経営危機の深刻化、小売店の取り合いや不毛な価格競争といった状況が、パナソニックへの不満となったのだ。

 これに対して、幸之助氏も応酬した。「血の小便が出るまで苦労したことがありますか」、「ロータリークラブのバッチをつけていますが、自分のところが厳しいのに、他人に奉仕している場合じゃないでしょう」、「当社の製品は販売しやすい。利益がでないのは経営的におかしいからだ」――その言葉には容赦がなく、1人1人の経営者に対して、反論していった。

 だが、販売会社、代理店も引き下がらない。期限を切らずに実施するといった熱海会談は、2日目を終了しても、両社の立場は平行線のままだった。
 そして、迎えた3日目の午後、幸之助氏は態度を一変させた。

 「よくよく反省してみると、結局は松下電器が悪かった。まずわが社が、改めるところを改め、その上で販売会社に求めるものがあれば率直に改善を求める。これから心を入れ替えて出直す。どうか協力してください」と訴えた。

 そのとき、幸之助氏の目には涙が光っていた。ハンカチで涙を拭う壇上の幸之助氏に対し、参加者はもらい泣きをし、会場は一転して粛然となったという。


松下幸之助氏による共存共栄の文字。熱海会談では、この文字が書かれた色紙が手渡された
 幸之助氏自ら書いた共存共栄の色紙を、参加者に対して1枚ずつ手渡し、感涙とともに、3日間に渡る熱海会談は幕を閉じた。参加者からは、パナソニックと販売会社の一体化を強く感じることができた会談であったという声が聞かれた。

 販売会社、代理店と一致団結したパナソニックは、その後、積極的な構造改革に乗り出す。

 幸之助氏が営業本部長に就任し、販売会社の整備強化、事業部との直取引制度、新月販制度を柱とする新販売制度を打ち出した。その後、各社が追随することになる現金取引を開始したのもこのときで、長期の手形取引ではどうしても過剰在庫を確保してしまう仕組みから、適正在庫へと移行し、無駄な在庫を抱えないで済む環境へと移行させた。

 強いつながりと、その上で推進する大胆な構造改革によって、この危機を乗り切ったのである。

 ちなみに、人生の転機に幸之助氏自身が悩んだものの1つに、丁稚として勤めた五代自転車店を辞め、大阪電灯に就職する際のエピソードがある。

 息子同然にかわいがってくれた五代自転車店の主人と夫人の悲しい顔が脳裏に浮かび、転職を言い出せない幸之助氏が悩みに悩んだ末にとった手は、自分に対して、「ハハビョウキ」という電報を打つことだった。心で詫びながら、幸之助氏は主家を出て、のちに「暇をいただきたい」との手紙を出し、五代自転車店を辞めることになった。

 子供時代の逸話ではあるが、のちに経営の神様といわれる幸之助氏も、嫌なことは自分からは面と向かって言い出せない、まさに「人の子」だったことを示すエピソードだ。(つづく)

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URL
  パナソニック株式会社
  http://panasonic.co.jp/index3.html
  パナソニック松下幸之助歴史館
  http://www.panasonic.co.jp/rekishikan/
  パナソニック社名変更関連記事
  http://kaden.watch.impress.co.jp/static/link/pana.htm

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2009/01/15 00:00

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