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【短期集中連載】
パナソニックの経営理念を歴史館に見る その4

~テレビ、洗濯機、冷蔵庫、そしてパナソニック第1号商品は?
Reported by 大河原 克行

1931年に発売したパナソニックの第1号ラジオ
 パナソニックがラジオを商品化したのは、1931年のことだ。

 1925年にラジオ放送が開始され、それまでに70万世帯に普及していたラジオだが、当時の商品は、専門店でしか扱えないこと、さらに、故障が頻発するという問題を抱えていた。

 パナソニックが挑んだのは、「故障の起こらないラジオ」、「一般の電気店が広く扱えるラジオ」であった。

 ところが、ラジオメーカーと提携し設立した子会社の国道電機が生産したラジオは故障の連続。そこで、国道電機を直営とし、改めて開発を開始したのだ。パナソニックが完成させたのは3球式ラジオ。東京中央放送局のラジオコンクールに応募したところ、1等に当選し、「松下」の名を、ラジオの世界に一気に広めることもできた。


東京放送局のラジオコンクールに応募した際の説明書 1933年に発売した4球ペントードラジオ。ラジオ事業開始当初のヒット商品 1946年発売のオールウェーブラジオ第1号機

1952年に発売となったポータブルラジオ第1号機
同じ1952年発売の標準5球スーパーラジオ。昭和20年代に最も売れたラジオだ
ハイファイ化を促進するきっかけとなったホームラジオ。1954年に発売

1955年に発売された日本初のプリント配線ラジオ
1959年発売の6石小型トランジスタラジオ
1960年発売のトランジスタラジオ。「ゴールデン・エイト」と呼ばれ、真野善一氏のデザインが受けた

 このとき、ラジオの競合が激しくなり、価格競争が激化。他社製品が25~30円であった時代に、パナソニックは、あえて45円という価格設定をしたのだ。

 この価格設定の背景には、商社がダンピングによって競合メーカーを退け、市場を独占したのちに利益を確保するという手法を用いたことに対峙する姿勢を、幸之助氏自身が持っていたことが見逃せない。

 「競争にとらわれず、適正な利潤を確保するのが事業の正しいありかたであり、業界の発展に寄与する」との信念から、適正な利益を確保できる価格を決定したという。

 これは、その後に同社独自の呼称として広がる「正価」という考え方につながっている。

 「正価」は「適正価格」という意味であり、「定価」とは別に定義されたものだ。適正利潤に基づく価格で販売することは、メーカー、販売店の経営安定のためだけでなく、消費者にとっても購入しやすく、安心して購入できることにつながるという考え方であり、当時は一部のメーカーを除いて定価が存在しておらず、不当に高く販売したり、利益を無視して販売するといった動きが出ていた状況を打開するものとなった。

 もちろん、利益が取れるという場合には、一気に価格を引き下げる。


1963年に発売した6石トランジスタのパナペット。1機種で100万台を販売した大ヒット商品
 1963年に発売となったパナペットでは、完成した試作品に対して、技術部長を呼び出して分解させ、ビス一本に至るまでコストダウンの可能性を問いただした。結果、当初計画の半値となる3,980円で販売。1機種で100万台以上を販売する大ヒット商品となった。

 「1割のコストダウンならば難しいが、半値ならばできる」と、幸之助氏は語り、発想を変えることの重要性を社員に訴えた。

 また、パナソニックは、第1号ラジオを完成させた翌年、発明家が持っていたラジオの重要部分の特許を発明家から買い取っている。この特許が高周波回路で多極管を使用するラジオの設計において、特許に抵触し、大きな障害となっていたからだ。パナソニックは、特許を買い取っただけでなく、これを同業メーカーに無償で公開するといった手を打った。ラジオの市場を拡大させるという観点から、パナソニックがとった大きな市場貢献だったといえる。


34石の半導体を利用して、11バンド受信を実現した高級ポータブルラジオ。1966年発売、価格は10万8,000円 1973年発売のFM/AMポータブルラジオ「クーガNo.7」。コックピットを意識したデザインが人気に

1974年には当時のBCLブームの先駆けとなった6バンドBCLラジオを発売 1977年に発売した超薄型ラジオ「ペッパー」

 ちなみに、幸之助氏がラジオ事業への進出を決意したのは、たまたま聞きたいラジオ放送が故障で聞けなかったことへの憤りがきっかけだったというからユニークだ。


累計3億台を出荷したテレビ事業

パナソニックのテレビ第1号機。17インチの白黒テレビだ
 一方、テレビの基礎研究は1935年頃から開始し、1938年にはモノスコープによる送像装置を完成。有線送受像に成功するとともに、12型ブラウン管使用のテレビを試作。翌年には、東京放送会館と日本放送協会技術研究所間の無線伝達に成功した。

 テレビの商品化は、戦後になってから。1953年のテレビ本放映開始に先駆け、1952年に白黒テレビの生産を開始したのが始まりだ。第1号商品の価格は29万円。当時の初任給の約40倍という価格だ。現在の初任給から逆算すれば、700~800万円という代物だ。

 その後の高度成長時代を迎え、テレビは、洗濯機、冷蔵庫とともに、「三種の神器」と呼ばれ、家庭に普及していくことになる。


テレビの生産が行なわれた大阪・茨木市のテレビ工場。2001年からはプラズマパネルが生産されることになる
1956年に発売した14型テーブルタイプテレビ。日本初のメタルバックブラウン管採用
1965年に発売となった家具調テレビ「嵯峨」

 パナソニックは、1960年には業界初となるカラーテレビを商品化。65年には家具調白黒テレビ「嵯峨」、1974年には省エネ回路採用でカラーテレビ普及の原動力となった「クイントリックス」、最先端のニューメディアテレビとして1985年に発売した「α2000X」、シリーズ累計出荷400万台という人気商品となった1990年発売の「画王」、そして、1998年に発売したフラットブラウン管採用のデジタルテレビ「T(タウ)」といった変遷を経て、2003年からは、薄型デジタルテレビ「VIERA」へとつながっている。


3C(カラーテレビ、クーラー、カー)を迎え、カラーテレビの需要が増大。テーブル型カラーテレビ第1号製品。サイズは17型
世界初の赤外線リモコンを搭載したカラーテレビ。マジコンと呼ばれた

 2008年10月7日には、事業開始から56年の歳月を経て、テレビの累計生産台数が3億台に達したことを発表。内訳はナショナルブランドで約1億500万台、パナソニックブランドで約1億9,500万台。また、ブラウン管テレビは約2億7,500万台、プラズマテレビが約1,300万台、液晶テレビが約1,200万台となっている。


茨木工場にある「テレビ事業復活の樹」。フラットプラウン管テレビでの出遅れを反省し、薄型テレビでの復活を誓った 2008年10月には累計3億台のテレビを出荷した

「三種の神器」で積極的な商品投入

パナソニック第1号洗濯機となる丸型撹拌式電気洗濯機
 テレビとともに、三種の神器を構成した洗濯機、冷蔵庫も、ほほ同時期に第1号商品が投入されている。

 洗濯機は、1951年から生産、販売を開始。第1号機は、丸型撹拌式電気洗濯機と呼ばれ、価格は46,000円。その後、量産によって、価格の引き下げに成功。角形噴流式電気洗濯機では、絞り機能を付属させて、28,900円で販売。1955年には月産5,000台を超えることになった。


1954年に発売した角形噴流式電気洗濯機では、絞り機能を付属させた 世界的水準の工場にするとして、最先端製造設備を導入した豊中市の洗濯機工場 現在の洗濯機工場の様子。写真は、ホームアプライアンス社静岡工場

 冷蔵庫は、1953年に発売したのが最初の商品。1952年に提携した中川機械(提携に伴い、社名を中川電機に改称。のちの松下冷機)が生産したものだ。第1号機の価格は12万9,000円。その後、新工場の建設によって、量産化に着手。1960年には、年産23万台の規模となった。


パナソニックの冷蔵庫第1号
冷蔵庫には重厚なナショナルのロゴがつけられていた

東大阪市の冷蔵庫工場。1957年当時のもので大規模な量産化ラインが敷かれていた
国産初の冷凍庫を備えた冷蔵庫。1977年発売。「ちょっと大きめ」で訴求

 ここでも幸之助氏の逸話が残っている。提携の申し入れを行なってきたのは中川機械からで、経営者の中川懐春氏がてきぱきとした様子で自社の実状を説明し、提携の意図を語った。「引き受けてくださるのならば、無条件で一切をお願いします」という利害を超越した態度に感銘し、幸之助氏は、資料を求めることも、工場を見ることもなく、即座に提携することを決めたという。





 ここで、松下幸之助歴史館に展示されている歴代の商品を見てみよう。


1936年に発売した自動首振型電気扇。扇風機の第1号商品 1952年には楕円形のデザインを採用した扇風機を発売。初めてプラスチックの羽を採用
パナソニックが開発した第1号真空管。無線機用のものだ

1936年に商品化した白熱電球のパッケージ
白熱電球としてはこれが第1号商品
木製の探見電灯。戦後の民需生産再開の先駆け的商品

1952年発売のミキサー。パナソニックの回転調理器具第1号とされる 第1号ルームエアコンは1958年に発売。価格は125,000円 家庭用録音機として第1号となるテープレコーダー

同社掃除機事業の原点となる1958年に発売したシリンダー型電気掃除機
1959年に発売した電気カミソリ
1959年発売の電気自動炊飯器。価格は4,500円

1988年には日本初のIHジャー炊飯器を商品化した
1964年に発売された超音響ステレオ「飛鳥」。当時は家具調家電が増加し、パナソニックではそれらに和名を採用
こちらは超音響ステレオ「宴」。1965年の発売だ

VHS方式を決定的としたマックロード。いまとなってはナショナルブランドに違和感がある 2000年に発売となった世界初のオーディオプレーヤー。SDカードは、オーディオ向けからスタートした
こちらは2001年発売の世界初のSDオーディオレコーダー

モートルとハイパー乾電池の開発

同社の第1号モートルは、2分の1馬力を持つ3相誘導電動機
 パナソニックにとって、エネルギーまわりの取り組みとして欠かせないのが、1933年に開発したモートル(モーター)と、1954年に開発したハイパー乾電池であろう。

 モートルは、もともと重電メーカーが独占しており、参入余地はないとも言われていたが、パナソニックは、小型モートル分野にあえて進出。自ら開発、生産を開始し、松下電動機という別会社まで設立した。

 当時、モートルが利用されていたのは、家電商品では扇風機ぐらいだった。なぜ、パナソニックがモートル事業に進出するのか、大きな疑問が沸き起こり、経営を危惧する声もあがっていた。

 だが、幸之助氏は、「将来、一般家庭の生活が向上すれば、一家に平均10台以上のモートルが使用される日がくる。モートルの需要は無限である」と説明し、この事業を推進した。

 戦後になってから、家電商品の普及とともに、モートルは必要不可欠な部品となったのは周知の通り。幸之助氏の先見の明ともいえる経営判断だった。

 一方、ハイパー乾電池は、乾電池の開発にあたって外国技術の導入を考えていた幸之助氏に対し、技術担当の中尾哲二郎氏が、自社の技術で開発すると宣言し、中央研究所が中心となって商品化したものだ。


1954年に発売したナショナルハイパー乾電池
これは、1931年に開発した乾電池。ランプなどに使用した
パナソニックが独自開発した水銀電池

 海外の企業は、技術導入に際して、乾電池だけでなく、ランプケースなどの関連商品全体に対するロイヤリティを要求してきたが、「不当な金を払ってまで技術導入をすることはない。必ずいいものを作りますからやらせてください」とする中尾氏の意見を聞き入れ、提携交渉を終了し、自社開発に取り組んだのだ。

 1954年に単一、単二のハイパー乾電池を発売以来、乾電池事業はパナソニックの重要な事業の1つとなっている。乾電池だけで有人飛行に成功するといった実績を誇る技術の高さは、いまでも変わらない。


長寿命を実現したハイトップ乾電池はベストセラー商品
2006年にはオキシライド乾電池での有人飛行に成功

2007年には同じくオキシライド乾電池で時速100km走行を達成した
100km走行に使用したオキシライド乾電池

パナソニックブランドの導入

パナソニックブランド第1号商品となったハイファイスピーカーのカタログ
 2008年10月1日付けで、社名および世界統一ブランドとなったパナソニックが、初めてブランドとして導入されたのは1955年のことだ。当時、ナショナルというブランド名が米国で登録されていたことから、米国向けの新たなブランドとして考案したものである。

 「Panasonic」は、「汎く(あまねく)」、「グローバルに」という意味を持つ「PAN」と、「音」、「進歩的な」という意味を持つ「SONIC」を組み合わせた造語で、同社が生み出す音が世界に届いてほしいという願いを込めたものだ。

 そのブランド制定の意味からもわかるように、パナソニックブランドの第1号商品は、ハイファイスピーカーという音響商品につけられている。


これがパナソニックブランド第1号となったスピーカーと同型のもの
ナショナルとパナソニックの2つのブランドが初めて付けられたポータブルラジオ
テクニクスブランドの第1号商品となった小型スピーカー「Technics1」。同ブランドもパナソニックに一本化された

 その後、海外では、パナソニックとナショナルのダブルブランド商品が登場したほか、1988年には国内AV商品にパナソニックのブランドを採用。2003年に海外向け商品をすべてパナソニックに統一した。

 さらに、2008年10月には社名をパナソニックに変更するとともに、グループ会社の社名も松下からパナソニックに変更。全商品のブランドもパナソニックに一本化した。

 ちなみに、2008年10月1日付けで、松下の名前からパナソニックに社名を変更した会社は、パナソニック電工に変更した松下電工をはじめ、国内92社、海外88社の合計180社。さらに、ナショナルをつけていた32社も、冠をパナソニックに変更した。(つづく)

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URL
  パナソニック株式会社
  http://panasonic.co.jp/index3.html
  パナソニック松下幸之助歴史館
  http://www.panasonic.co.jp/rekishikan/
  パナソニック社名変更関連記事
  http://kaden.watch.impress.co.jp/static/link/pana.htm

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2009/01/14 00:00

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