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【短期集中連載】
パナソニックの経営理念を歴史館に見る その3

~創業命知、綱領、事業部制――企業としての骨格を整える
Reported by 大河原 克行

 ソケット、角型ランプ、電熱器などのヒット商品によって、パナソニック(当時は、松下電気器具製作所)は、徐々に事業規模を拡大しはじめた。それにあわせて、企業としての体を成すに従い、松下幸之助氏は、社会への責任ということを考え始めた。

 「企業は社会からの預かりもの」

 思いを巡らせた幸之助氏は、企業の存在意義に関する基本的考え方を、この言葉に集約した。


2008年10月1日に行なわれたパナソニックへの社名変更当日の総合朝会では、現社長・大坪文雄社長が、綱領・信条および遵奉すべき7精神を読み上げた
 1929年、社名を松下電気器具製作所から松下電器製作所へと変更。それにあわせて、同社は、綱領・信条を制定した。

 当初の綱領は、「営利ト社会正義の調和ニ念慮シ 国家産業ノ発達ヲ図リ、社会生活ノ改善ト向上ヲ期ス」というものだったが、その後、「産業人タルノ本分ニ徹シ社会生活ノ改善ト向上ヲ図リ 世界文化ノ進展ニ寄与センコトヲ期ス」へと変更している。いまの言葉になおせば、「私たちの使命は、生産・販売活動を通じて社会生活の改善と向上を図り、世界文化の発展に寄与すること」ということになる。

 文言の変更はあったが、同社のあらゆる経営活動の根幹をなす、経営理念として、位置づけられていることは、いまでも変わらない。

 企業は社会からの預かりもの。それならば、社会の発展のためのお役に立つのが企業の役割。そうした意味が、この綱領のなかに込められている。

 大坪文雄社長は、2008年10月1日のパナソニックへの社名変更当日の総合朝会で、「綱領」を読み上げた後、「今後、パナソニックに積み上げる価値は、これまで同様、経営理念、綱領の実践から生まれるものでなくてはならない」と宣言した。

 社名変更後も、この経営理念は変わらないことを改めて強調したのである。


綱領・信条および遵奉すべき七精神
 一方で、幸之助氏は、1933年に、「遵奉すべき五精神」を制定した。これは、全従業員の行動指針となるもので、その後、これに二精神が加わり、現在では、「遵奉すべき七精神」となっている。

 遵奉すべき七精神は、産業報国の精神、公明正大の精神、和親一致の精神、力闘向上の精神、礼節謙譲の精神、順応同化の精神、感謝報恩の精神からなり、朝会では、パナソニックグループの全従業員が、綱領・信条とともに、この七精神を唱和している。


幸之助氏が定めた2つ目の創業日

 パナソニックには、2つの創業日がある。

 1つは、松下電気器具製作所を設立した1918年3月7日である。まさしく創業日といえる日である。

 そして、もう1つは、創業命知の日と呼ばれる1932年5月5日だ。

 社内の呼び方でいえば、2009年は、「創業91年、命知77年」ということになる。

 では、創業命知の日とはなにか。

 幸之助氏自身は、特定の宗教の信者ではなかったが、ある日、知人に誘われて奈良県にある天理教の本部を訪れることになった。

 そこで目にしたのは、喜々として働く信者たちの姿だった。無償の奉仕に懸命に、そして喜びを持って働く姿に感銘を受けたのだという。

 ここで幸之助氏は、事業経営について、改めて深く考えるようになった。

 「人間には、精神的安心と、物質的豊かさが必要である。宗教は人々の悩みを救い、人生に幸福をもたらす聖なる仕事である。それに対して、事業経営も人間生活に必要な物資を生産提供する聖なる仕事。そこに事業経営の真の使命があるはず。今後は、この真の使命に従って経営をしていかなければならない。

 こうした思いに至った幸之助氏は、1932年5月5日、大阪・堂島の中央電気倶楽部に社員を集め、第1回創業記念式を挙行した。創業から14年目の創業記念式というのは確かに違和感がある。しかし、幸之助氏は、この年を「創業命知元年」と位置づけ、5月5日を創業記念日としたのだ。

 それは、所主告辞にも明記され、その後、幸之助氏は、「うちの創業は1932年5月5日です」と言ってはばからなかったという。


第1回創業記念式の様子。大阪中央電気倶楽部で開催した 大阪・堂島の中央電気倶楽部は、いまでも当時のままだ 創業命知の日に宣言した所主告辞。5月5日を創業記念日とすることが示されている

水道の水の如く商品を廉価に提供するという水道哲学

 1932年5月5日の第1回創業記念式では、水道哲学および250年計画が発表されている。

 「産業人の使命は貧乏の克服である。そのためには、物資の生産に次ぐ生産をもって富を増大させなければならない。水道の水は加工され価あるものであるが、通行人がこれを飲んでもとがめられない。それは量が多く、価格があまりにも安いからである。産業人の使命も、水道の水のごとく物資を豊富にかつ廉価に生産提供することである。それによってこの世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。わが社の真の使命もまたそこにある」

 公園の水を誰が飲んでも咎められないように、商品を廉価に提供し、多く人に利用してもらうことが、幸せにつながり、その役割を担うのがパナソニックであることを示したのだ。

 そして、これを実現するために、建設時代10年、活動時代10年、社会への貢献時代5年の合計25年を1節とし、これを10節繰り返す、250年計画を発表した。

 第1回創業記念式典で幸之助氏が発表した内容に、社員は感銘を受け、その後、我先に壇上に駆け上り、自らの想いを訴えたという。会場は、まさに興奮のるつぼと化したことは、伝説的に伝えられている。

 創業命知の翌年となる1933年には、大阪・門真に7万平方mの敷地を購入し、本店・工場を移転し、ここを第三次の本店とした。さらに、同年には、事業部制を導入するとともに、先に触れた「遵奉すべき五精神」を制定。1935年には、株式会社に改組し、松下電器産業株式会社を設立し、基本内規を定めるなど、このわずか数年で、現在のパナソニックの基盤となる骨格を作り上げたといってもいいだろう。輸出を行なう松下電器貿易を設立したのも1935年のことだった。


1935年に打ち出した「基本内規」の原本 門真は大阪から鬼門の方向と言われたが、幸之助氏はここに本社を構えた

 1933年当時の従業員数は1,200人、生産する品目は200種類に達していた。7万平方mという莫大な敷地購入に対しては、放漫経営との声があがったほか、門真地区は、大阪から見ると鬼門の方角に当たるため、先行きを懸念する声もあがった。

 だが、幸之助氏は「東北方向が鬼門ならば、日本の地形はどこも鬼門になる」として、門真への本店・工場の建設を敢行した。

 そして、「組織の膨張は、やがて崩壊への道程であることが多い」と、まるで自分に言い聞かせるように、従業員に向けて発言。同時に、「わが社は躍進か、崩壊かの分岐点に立っている。将来の発展、衰亡は、かかって諸君の双肩にある」と従業員を鼓舞した。


事業部制と“任せる”経営

事業部制の導入を発表する松下幸之助氏
 事業部制の導入は、松下幸之助氏の経営手法のなかでも代表的なものだ。

 幸之助氏の独自の発想と呼ばれる事業部制は、「自主責任経営の徹底」と「経営者の育成」を狙いとして導入したものと位置づけられている。

 事業部制を導入した1933年5月は、7月の本店・工場を移転を直前にした時期だ。

 ラジオ部門を第1事業部、ランプ・乾電池部門を第2事業部、配線器具や合成樹脂、電熱部門を第3事業部とし、それぞれに工場と出張所を持ちながら、製品の開発から生産、販売、収支に至るまで、事業部が独立した形で事業を行なう、製品分野別の自主経営責任、独立採算制としたのである。

 さらに1935年の松下電器産業の設立とともに、分社制を採用し、事業部門別に9社を設立し、自主責任経営の色合いをさらに濃くした。

 事業部制を語る上で、見逃せない出来事がある。

 それは、創業期における「任せる経営」の実践だ。

 創業期を支えたアタッチメントプラグ、二股ソケットに使用する練物は、材料の配合比率によって品質が大きく異なることから最大の企業秘密となっていた。そのため、配合の仕事は身内だけで行ない、従業員には教えないというのが一般的であった。とくに、パナソニックの練物の品質には高い評価が集まっていたから、情報漏洩に気を配るのはなおさらだ。

 だが、幸之助氏は適任といえる従業員には、その配合を教えはじめた。

 「そんなことにとらわれていては事業は伸びないし、人も育たない」

 事業の拡大にあわせて、練物を作る人材を確保できたこと、そして、秘匿するはずの配合方法まで教えてくれたという信頼感が従業員の間に生まれ、事業の拡大にプラスとなったという。

 また、電熱部の設置に際しても、生産販売に関する責任は、中尾哲二郎氏に一任するという事業部制の前身ともいえる手法を導入していた。

 ちなみに、幸之助氏は1920年に社員とともに歩一会を結成。同組織が、従業員のためのレクリエーション活動、運動会、文化活動などの実行組織として機能し、従業員全員の心を1つにすることに乗り出している。これも、全員経営という、いまのパナソニックにつながるもので、事業部制を成功させる礎になっている。

 もう1つ、幸之助氏が事業部制を敷いた理由として語られているのが、前回の連載で触れたように、幸之助氏自身の体が弱かったことだ。

 病弱であったことから、自分だけで会社経営のすべてを掌握することに早い段階から限界を感じ、人に任せることを推進してきたのが幸之助氏の手法だったともいえる。それが、結果として、事業部制を生んだのだ。

 「人は任せると、存分に創意と能力を発揮し、大きな成果を生む」

 戦前に実施された事業部制の導入は、戦後の経済成長期に大きな成果を生むことになり、多くの企業がこの仕組みを導入することになった。(つづく)


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URL
  パナソニック株式会社
  http://panasonic.co.jp/index3.html
  パナソニック松下幸之助歴史館
  http://www.panasonic.co.jp/rekishikan/
  パナソニック社名変更関連記事リンク集
  http://kaden.watch.impress.co.jp/static/link/pana.htm

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2009/01/09 00:02

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